2017年09月10日

贈り物とお返しの経済

61xjwKwgUzL.jpg贈与と返礼について書いた過去記事をアップ。
資本主義には贈与経済で対抗すべきだとは思っている。ただし、贈与経済を極端に崇めるのにも抵抗があり、古い社会、村社会、人間本来の性質などについても同様だ。そんなにいいところばかりであったはずはないし、かつての風習の悪いところも見なければ、今の時代に合ったより良いものを作り出すこともできない。
今の社会が悪いのはAというもののせいで、それをBというものに変えたら(あるいは戻したら)すべては解決するのだった!などという誰も気づかなかった「解」などというものはないのだ。
『気流舎通信1 SOMA号』という伝説のzine(2013年10月)に、「贈与とお返しの経済」のタイトルで寄稿した。この媒体も、今は品切れ状態だが素晴らしい。一部書き足した。

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ヒトは贈物をやめない

お中元は、一説には明治三〇年代に、大売出しを催す百貨店の影響で定着した習慣で、それが戦後ますます盛んになったのだそうだ。あまり感心しない経緯だが、それでも日本に住む人々は、夏の盛りの時期には盆礼、暑中見舞いなどの贈物をしてきたのだから、やはり興味深い。

クリスマスやバレンタインデーのプレゼントはより感心しないが、それらでさえ我々のなかにある贈物とお返しの不思議な「本能」のようなものを見せてくれるという意味で注目に値する。
他にも有形無形様々な贈与が、この社会にはある。お年玉、お土産、お見舞い、お祝い、寄付、募金、ネット掲示板の「あげます」情報、互助会、ボランティア活動、海外援助、歳末助け合い……。
なぜ我々はこんなことをするのだろうか?
ただで物を他人に渡してしまうなど、今の資本主義(カネ儲け主義)経済の常識からすると完全な「損」だ。各個人はこの「損」を減らし、一円でも儲けを増やすために、かかったコストにできるだけたくさんの儲けを上乗せして対価を得ようとするはずではないか。

つまり一般に言われるほど資本主義は勝利などしていない。これほど多くの資本主義的でないやりとりが、どうしても社会に存在してしまうのだ。我々のなかに、カネ儲けに覆われて見えづらくなった、ヒトという生き物が持つ大きな何かがある。

貨幣経済が普及する前の社会では、人々は互いに物と物を交換していたというイメージがある。けれどもこの物々交換は本当に起きるのだろうか? ある魚を持った人が、それを麻布と交換したいとする。けれどもちょうど麻布を持っていて魚が欲しい人はいないかもしれないし、万一いたとしても出会えないかもしれない。

文化人類学者のモースによれば、実は個人どうしの物々交換など存在しなかったそうだ(註1)。確かに物々交換経済のイメージは今の商取引に似すぎていて不自然だ。交換を行っていたのは、必ず部族などの共同体どうしだった。そして交換は、価値がつり合うものどうしの取り引きではなく、まずは一方的な贈与という形で行われたのだ。共同体に贈られた物は、誰かに独占されることなく、内部で分配された。そしてその贈与には返礼が行われるのが常だった。

D.グレーバーの『負債論』には、物々交換の社会などというものがなかったことが、より詳しく立証されている。では何があったのかというと、著者によれば「貸し借り」であった。貸し借りは時間差のある物々交換ともいえるが、そこには即時決済の概念がない。

こうした贈与と返礼の連鎖が経済を成り立たせていたどころか、それは宗教や政治などあらゆるものを含んだ制度で、経済などその一部分でしかなかった。
つまり、贈られるのは物に限らなかたっだろうし、それは今の贈与・返礼についても言える。この前歌を歌ってもらったから、今度はこちらが踊りを踊ってあげよう、でもいいし、のこぎりを借りたから、味噌の作り方を教えてあげよう、でもいい。無形の贈与まで含めて考えると、贈与の範囲は限りなく広がり、贈与も共有も交換も区別がしづらくなる。「○○してもらったから、××してあげよう」という気持ちのやり取りがあるだけなのかもしれない。

資本主義より大きなもの

ただしかつてはこの返礼は義務でもあったとモースは言う。我々が贈物を貰うと、お礼をしなければいけないような落ち着かない気分になるのは、そのせいかもしれない。
実は贈与・返礼の習慣も、いいことばかりではない。贈与には返礼の義務がつきものであり、それをしないと戦いになることもあった。より多く贈与する側が偉いと見なされたり、返礼できるかどうかに面子がかかっていたというのも、どうかと思う。女性が贈与される物として機能していることもあった。そもそもしきたりと人間関係でがんじがらめになるのは辛い。これらを見るにつけ、近代以降の人間が「自由な個人」になって気楽になろうとしたのには、一理も二理も三理もあると思える。

けれども自分は古いしきたりを崇めたいわけではない。ただ、古くからあることを今に生かしたいのだ。
返礼の義務などなくていい(註2)。自然界は我々に見返りを期待せず、エネルギーや食べ物を与え続けている。果樹や花も、甘い実や蜜を一方的に動物に与えている。その原則を自然界の一部であるヒトが身につけていないはずがないではないか。
返礼はできる時に、できる形で、できる分だけすればいい。贈与してくれた当人ではなく、別の人に返してもいい。それが巡り巡って、当人に返っていくこともある。「恩返し」ではなく「恩送り」という言葉が、かつてこの国では普通に使われていたのだ。それを考えれば与えた方も、返礼がないからといって怒ったりはしないだろう。これならカネがない人でも、カネを儲けるのが苦手な人でも、何らかの形でこの「経済活動」に参加できる。

これが資本主義よりはるかに長く続いてきた、ヒトという生き物の経済なのだ。
この社会で一番まっとうと見なされるのは、バリバリ働いてカネを稼いでいる人である。そもそもカネを稼ぐことしか、生きるうえでやるべきことがないような気がしてくる。就職活動や会社勤めやカネを稼ぐのが得意でないなら、生きていくのは物質面でも精神面でも辛い。いや、会社勤めやカネ稼ぎをしていても、十分生きるのは辛いのだ。これはいい加減になんとかしなければならない大問題だ。
ただし、我々のなかに眠る贈与の本能をもう少し目覚めさせるだけで、これが変えられるかもしれない。

(註1)『贈与論』(マルセル・モース著、吉田禎吾他訳、ちくま学芸文庫)
(註2)ただし返礼があったほうが、贈与・返礼の連鎖は続きやすい。無料でなにかを与えてくれる活動をしている人には、返礼として手助けしたり、カンパしたり、その人の店で何か買ったりしたほうが、その活動も長く続くだろう。
posted by 鶴見済 at 11:49| 人間界の経済 | 更新情報をチェックする

2017年08月27日

金なし生活者スエロと「労働と消費」の人生

スエロ.png『スエロは洞窟で暮らすことにした』という本について以前に記事を書いた。
スエロはアメリカのユタ州で一切お金を使わずに、洞窟のなかで暮らしている。彼はお金が生み出す様々な不安や不正と決別するために、お金を手放したのだが、彼ほどではなくてもお金に依存した生き方に疑問を持つ人は多いだろう。

お金を払ってほとんどのことを人にやってもらい、その分働いてお金を稼ぐこと、つまり「労働と消費」が我々の生の営みになっている。
労働時間と消費がどちらも減っているのだから、こうした人生への見直しが進んでいるとも見れる。ただしお金への依存が進んでいる側面もあるので、簡単には言えない。
「少労働、少消費社会」を目指したい。
以下は『scripta』という雑誌に2014年の夏に書いた記事。

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自分にも多少身に覚えがあるのだが、なるべくお金に頼らずに生きるのは決して楽なことではない。野菜を育てるのも、飲食店で食べるのをやめて弁当を持参するのも、物をなるべく買わずにどこかで調達してくるのも、どれも面倒だ。お金とは本来生活を便利にするための道具だったのだろう。けれども、何もかもお金任せにせず、自分の手でやってみたほうが「生きることへの興味」が湧いてくるように思える。賃労働と消費の生活を続けていれば、食べていくことはできるかもしれないが、肝心の「生きることへの興味」がなくなってしまうのではないか。思えば、自分が賃労働生活から降りてフリーランスになったのも、それを恐れたからだ。

とは言っても、多少お金を使わないようにするだけでも相当面倒になるのだから、一切お金を使わない生活がどれほどかは想像を絶する。それでもお金を使わずに暮らしている人はいる。イギリスで二半年以上もお金を使わずに生活する実験をしたことで知られるマーク・ボイルの『ぼくはお金を使わずに生きることにした』(紀伊國屋書店)によると、彼が見つけたお金を使わないで暮らしている人はたったの二人。一人は留守宅のハウスシッターやバーター取引で暮らしているドイツの女性・シュヴェルマー、そしてもう一人がここに紹介するアメリカの男性・スエロだ。

そのスエロの伝記とも言える『スエロは洞窟で暮らすことにした』によれば、彼が住んでいるのはアメリカ西部ユタ州・モアブの洞窟。食べるのは捨てられている食品や野生のもので、人に招かれてごちそうになることもある。衣類もゴミのなかから調達し、移動には自転車やヒッチハイクを利用する。こうして彼の金なし生活は十数年にも及んでいる。もちろんゴミを漁っているだけではない。彼は図書館のコンピュータで自分のウェブサイトも作っているし、ボランティアで様々な仕事もしている。その生活が楽だとは到底言えないが、普通に賃労働をしている人よりも充実しているかもしれない。

この本にはお金を使わずに生きる方法が詳しく書かれているし、金融経済の問題や食料の配給など様々なオルタナティブな活動についてもわかりやすくまとめられている。けれども、スエロの旧友でもある著者が関心を持ったのは、どうやら彼の金なし生活そのものではない。膨大なページを彼の遍歴の記述に費やしているのだ。クリスチャンとしての生い立ちや自殺未遂。様々な支援・慈善団体を渡り歩いては、偽善に直面して離れることの繰り返し。平和部隊として赴いた南米でもインドの聖地でも、やはり幻滅を味わう。ほとんどの人がそうしているように、多少の偽りや矛盾など仕方がないと見過ごすことができれば楽なのだが、彼にはそれができない。
こうした遍歴のうちに、「お金に動機づけられた物事はすべて汚れている」と考えるようになった彼は、ついにお金を手放す。「どこにいようとも、そこが私の家」というのが彼の行き着いた思想だ。そして、ここでそのさすらいもほぼ終わったのだった。

もし私有という概念がなければ、あらゆる場所は皆の家だ。人間以外の生き物は皆、そのように感じているだろうし、前近代社会の人々にも多かれ少なかれそのような感覚はあっただろう。私有や売買が行き渡った近代以降の人間、つまり我々の価値観のほうがおかしいとも言える。そのなかで一人異を唱えるスエロは、地球上の生物圏全般を眺めてみても、人間の歴史を振り返ってみても、マジョリティの側にいるのだ。かつての社会では贈与、共有、相互扶助といった様々なつながりは、生の営みそのものだった。スエロは、そんな生き物としての本来の生き方を追求しているとも言える。
お金を手放しはしなかったものの、人生を深く真剣に生きるためにやっかいな森での自給生活を始めたH.D.ソローを思い出す。本気で生きようとすればするほど人は、面倒な道に足を踏み入れることになるらしい。

著者が最後に引きあいに出すのは、カミュの『シーシュポスの神話』だ。シーシュポスは神に逆らったために、岩を山の頂上まで持ち上げることを永遠に繰り返す罰を受ける。けれどもカミュによれば、この世の不条理に意識的であるなら、たとえ闘争に終わりがなくても、それだけで人の心は満たされるのだ。そして本書の著者も、シーシュポスを幸福だとするカミュに倣い、スエロを幸福であると結論づける。

個人的な考えを言えば、皆がお金を使うことをやめるべきだとは思わない。どうにかしなければならないのは金儲け至上主義(資本主義)が行き渡ったこの社会であり、お金の発生と資本主義社会の誕生の間には、はるかな時間の隔たりがある。だからお金を使うこと自体は認めてもいいだろうと思うのだが、スエロが夢見ているのは、「お金が過去のものになる日」なのである。その日は我々が生きている間にはやってこないだろう。けれどもやっかいな道に足を踏み入れることが不幸とはかぎらない。今の彼ほど「生きることへの興味」を感じている者も、他にいないはずだ。
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784314011136
posted by 鶴見済 at 14:43| 書評など | 更新情報をチェックする

2017年08月06日

『おいしい資本主義』書評と個人の意見の大切さ

おいしい.png著者である朝日新聞の名物記者の近藤氏が、米作りに挑戦し、資本主義批判と脱成長論を展開している本の書評を書いた。
主張にはとても納得がいくのだが、「エコ」や「スローライフ」、さらには「まじめな人たち」への違和感まで自粛せずに書いていて、それがさらに本の主張をより独自のものにしている。こんなテーマの本にそれを書く人間が他にいるだろうか?
苦しければ苦しいと書き、納得いかない説には納得しない。いいことしか書かないのが普通の世界では、これは新鮮だ。個人の考えをちゃんと言うのはいいものだな、などと思えてくる。本の主張そのものより、その姿勢のほうに心を動かされたりする。
2015年の秋、『東京新聞』に書いた書評。

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衣食住のすべてをお金で買っている我我にとって、働くことはそのお金を手に入れるためのやむをえぬ手段にすぎない。お金にならない仕事はどんなに意義があっても、「食べていくために」諦めざるを得ない。しかしその諦めが蔓延した社会では、生きていくことはできても、肝心の生きたいという動機自体が失われるのではないか。
それならば、最低限自分の「食べていく」ものだけは作り、あとはやりたい仕事をやるという生き方はできないか。本書はまさにこれを実践しようと、長崎の支局へ異動した名物記者が、本業の傍ら毎朝一時間だけ自らの米を作ってみたルポとアジテーションの書だ。

ここで秀逸なのは、違和感があればどんな正論にも真っ向から異議を唱えていく姿勢だ。著者は資本主義を痛烈に批判するが、いわゆるエコロジー的な考えにも安易に同調しない。農薬の危険性は承知しながらも、周囲に害虫の被害を及ぼさないために自らもそれを撒く。山からの水を独り占めする大先輩とも、上手く関係を取ることで解決する。周囲との調和を最重要視し、人と人とのつながりを解体した近代社会を批判する。その一方で、近代化の産物である個人の自由をこの上なく愛しているのもまた著者自身なのだ。

資本主義、エコロジー、近代主義、反近代主義、いずれの考えも完全に正しいわけではない。それらを丁度よく修正するには、どの立場にも迎合することなく、こうした丁寧な異論を積み重ねていくしかない。著者の馴れ合いを嫌う姿勢は、こうした点でも大きな成果をあげている。
この体験記を読んで、米作りが楽だと思う読者はいないだろう。また人一人が一年間に食べる米の値段は、それほど高くはない。買ったほうが早いと言いたくもなる。大きなものには抗うよりも諦めて従ったほうが楽なのだ。けれども著者が生き生きと抗っている姿こそが、そこに少なからぬ価値があることを訴えかけてくる。
posted by 鶴見済 at 19:53| 書評など | 更新情報をチェックする

2017年07月17日

ロックという音楽、下層の生きやすさ、ブレイディみかこ新刊の書評

ブレイディみかこさんの『花の命はノー・フューチャー』51Ystd7K-KL__SX353_BO1,204,203,200_.jpgの書評を書いた。

文中にもあるけれども、自分はかつてどうしようもなくきつくなった時には、ロンドン・パンクスたちのやけくそでふざけた曲をよく聴いていた。セックス・ピストルズの『スウィンドル』やキャプテン・センシブルのソロなんかがそうだ。こういうものを聴いて笑ってしまうのがよかった。

かつてロックは貧困者、移民、精神異常者、性的少数者、邪教徒など有象無象のはみ出し者たちの鬱憤を飲み込んでいて、聴いていて楽になった。自分はそういうところから世界を学んだのだと思うし、ロック以上に自分を救ったものはない。そこに込められたマジョリティーにならなかった者たちの感情は、日本に暮らす自分の日々を支えた。
イギリスにはたくさんの移民がいて、それはかつて世界中に植民地を抱えた大帝国だったからだ。イギリスのロックがレゲエやダブをうまく取り込めたのは、かつての植民地であるレゲエのふるさとジャマイカからの移民がたくさん住み着いていたからだ。
自分はロックの雑種性のなかに、「下層」を余儀なくされた、あるいは選んだ人間たちの連帯や反抗を感じていた。少なくとも自分はそういうものだと思って勝手に勇気づけられていた。今は少し違うものになっているように思えるが。

ブレイディみかこさんのこの本にも、まるでかつてのやけくそのパンクを聞いた時のような爽快感がある。
それは彼女がイギリスの貧困地区に暮らす、彼の地では差別されるアジア系移民だからでもあるだろう。
これはイギリス下層生活エッセーだ。

下層に開き直ることの価値 (鶴見済)

2017年06月02日

無料の放出市0円ショップ ただであげるのは「損」か?

201504191446002.jpgここ5年程、0円ショップという路上アクションを何人かの仲間でやっている。参加者が月一回、家の不要品を持ち寄って道の隅に並べ、道行く人にただであげているのだ。服、家庭雑貨、本、CDなどが、毎回シート4枚に広げるくらいが大体はけていて、街の名物になりつつある。詳細はツイッターアカウント@kunitachi0yenを見てほしい。放出品は、残った場合は持ち帰りだが、持ち寄り大歓迎だ。覗きにだけでもいいからぜひ来てみてほしい。

街頭では「なぜただでやっているのか」と聞かれることが多い。出しているものが家の不要品だと言うと大体納得してもらえるが、それだけでなく、面白い人がたくさん集まってくるなど他にメリットがたくさんあるので「損」などとは思わないのだ。
それでも、一銭にもならないことにこんなエネルギーを費やすのは「損」なのではないかと思う気持ちもわかる。それについて考えさせられることがあった。

0円ショップの初期からの常連だったKさんが、今年病気で若くして亡くなった。古着やレトロなグッズを見て回るのが好きだったKさんは、時には0円ショップ用に物を買うこともあると言っていた。自分はそれを聞いて、「それは違うんじゃないか」などと言ってしまったのだが、Kさんは「ひとつ高々50円や100円ですよ」と笑っていた。彼がその頃、自分の死を予感していたかどうかはわからない。けれども、亡くなった今にして思えば、あの世にお金を持っていけない以上、その使い方は正しかった。
今自分は、彼が出してくれたTシャツやジャケットを着て生活している。そのなかには彼が「鶴見さん、こんなのどうですか」と渡してくれたものもある。それはもしかしたら、彼がわざわざ買ってくれたものかもしれない。彼の贈与はこうして、彼の思い出として見事に残った。

「損」などではなかった。Kさんから貰った服がたくさんあるので、彼をいつでも思いだしている。
物には霊が宿っていて、それが贈り物を人から人へと動かす力になると考えた文化人類学者がいた。そんな、ある意味非科学的な考え方をする人がいてもおかしくないと思うほど、贈り物は不思議な力を持っている。
「見返りもなくあげること」については、いまだに自分のなかにも、肯定できるようなできないようなもやもやした部分がある。ただ、我々には必要以上に「損」だと思うくせがついているようだと、Kさんに教えてもらった。

0円ショップの映像:
不要品放出市「0円ショップ」について 鶴見済さん原田由希子さんインタビュー (8bit News)
http://8bitnews.org/?p=6313
ゼロ円ショップ (映像作家・中森氏による現場の様子。自分も色々話している)
posted by 鶴見済 at 11:32| 日記 | 更新情報をチェックする

2016年11月29日

「人からどう思われるか」を基準に生きるのをやめる

「人からどう思われるのか」。
現代人が最も熱心に考えているのは、結局これなのではないか。とても高邁なことを言っている人でも、案外これを一番に考えていることが透けて見えたりする。
ここで言う「人」とは、いわゆる「世間の目」に限らず、友人、家族、同じ職場の人なども含んでいる。

大原扁理君とphaさんとやるトークイベントが12月2日にあるが、この二人のいいところは「人からどう思われるかを基準にして生きる」というあまりにも一般的な現代的生き方をきっぱりと否定して、「自分の生きたいように生きる」ことを重視しているところだ。
かく言う自分もかつてはそう主張していたし、今もそれは変わらない。

「自分の生きたいように生きる」とは、自分勝手で子どものようだと思うだろうか? 簡単なのは実は「みんながやっているようにやる」ことのほうで、まわりに合わせていれば問題も起きない。そっちがあまりに簡単なので、「自分がどう生きたいか」などということは真剣に考えられていないのではないかと思うほどだ。

まわりの人からよく思われることでなく、自分が本当にやりたいことを大事にして生きていると、どうしてもまわりとずれてくる。自分重視の生き方は、本当は誠実に熱心にやらないとできないのだ。
けれども「周囲の誰もがいいと思う完ぺきな自分」が出来上がったとして、当の自分はその時幸せだろうか。「人からよく思われる」ことを一番の基準にしていたら、本来の幸せは望めない。

pha×大原扁理×鶴見済「それぞれの幸福の自給自足法」B&B(予約終了)
去年の同じメンバーによるトーク 
pha × 大原扁理 × 鶴見済 生きづらさの脱出法 (tsurumi's talk)
posted by 鶴見済 at 23:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きづらさ | 更新情報をチェックする

2014年05月14日

宮台真司による捏造記事を訂正する

宮台真司が今年出した『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』という本のなかで、自分(鶴見済)の著作活動を概説するかのような記事を書いているが、それがとんでもない中傷的な捏造ばかりなのを発見した。ここにそれを指摘し、一刻も早い訂正を要求する(引用は同書p109から)。
その捏造を一言で言えば、こちらを「まるでオウム真理教のように」見せようと躍起になっている、と言えるが、問題はなぜ彼がそうするのか、だ。それについても後述している。
また、なぜ自分が90年代を通して「同じことの繰り返しの日常」論を展開していたのかも最後に書いている。
ではやや長くなるが、まずこの文から見てみよう。

●「1980年代後半から始まる鶴見済の著作活動は、現実リセットのツールとして、最初はハルマゲドンを称揚し…」

ここまで醜い捏造が訂正されずに掲載されているのだから、他の記述の信憑性も推して知るべしだ。
自分が著作活動を始めたのは90年代からだ。辞書によれば「称揚:ほめたたえること」だ。かつてハルマゲドンを褒め称えたのなら、誰もが「怪しいオウムのような人物」と思うだろう。ただし93年の第一作のなかで「ハルマゲドンなどない」とわざわざ書いているのだから、褒め称えるはずがない。

●「(鶴見は)「現実」は本当にリセット不可能なのか、と問います。鶴見は1996年に『人格改造マニュアル』において、僕の<終わりなき日常>という概念を「ハルマゲドンなき世界」と言い換えた上で、「ハルマゲドンがなくてもドラッグがあればOK!」と宣言しました。」

まず驚かねばならないのは、『人格改造マニュアル』には「ハルマゲドン」に言及している箇所などないということだ。つまり、こんなことはまったく書かれていない。これほど間違ったことを書かれたのは、これまでにも経験がない。
「〜と問います」だって??? 「現実はリセット不可能なのか」などという問いは立てたこともないし、散々出てくる「現実のリセット」などという言葉は使ったこともない。現実リセットどころか、日常を楽に生きるために心の持ちようを変えてみようと提唱していたのだ。

「僕の<終わりなき日常>という概念を「ハルマゲドンなき世界」と言い換えた」などという馬鹿げた解釈はどこから来るのだろう。「ハルマゲドンなどない」「延々と同じ日常が続く」と書いたのは93年、この男がサリン事件以降に「終わりなき日常」云々と言い出す前だ。
「終わりなき日常」についてまた後に述べる。

『人格改造マニュアル』はドラッグについて書かれているのはごく一部(二種類のみ)で、精神医療に用いられる方法を中心に紹介し、心のセルフ・コントロールを勧めている。自分の内面を変えて、現実に適応しようと提唱した本だ。「現実のリセット」などとは正反対の趣旨だ。
前書きの一行目にはこう明記している。
本書は、自殺もせずになんとか楽に生きていくための実用書である。

●「「オウムの失敗」を踏まえた上で、鶴見済は、以下のように言います。昔は戦争や災害による「現実のリセット」の可能性を夢見ることができました。ところが戦争や災害による「現実のリセット」が不可能になったので、自分で「ハルマゲドン」をもたらすというオウム真理教の「ハルマゲドン幻想」が出現しました。ところが「オウムの失敗」で「ハルマゲドンなき世界」が自明になったので、「ハルマゲドン」と等価な現実リセットのツールとして、自殺とドラッグが浮上するのだ、と」。

「〜出現しました」などとも分析していないのだが、いちいち細かいところまでは言っていられない。
『自殺マニュアル』はもちろんオウム事件のはるか前に出たもので、『人格改造〜』は93年の段階で出版企画が決まっている。どちらもオウムの失敗を踏まえたものなどではない。
それにしても、この短い文のなかだけでも「ハルマゲドン」という言葉が4度も、「現実リセット」が3度も出てくるのは、一体何なのか? ここにこの男の意図を読み取ることができる。『完全自殺マニュアル』前書きに90年代初頭の東西冷戦終了後の社会状況を書いたのだが、そこにたまたま一言「ハルマゲドンなどない」と書いたがために、「鶴見=ハルマゲドン」という捏造を生むスキを与えてしまったようだ。

●「1980年代後半から始まる鶴見済の著作活動は、現実リセットのツールとして、最初はハルマゲドンを称揚し、次に「自殺」を称揚し、その次に「ドラッグ」を称揚し、そして最後に「ダンス(レイヴ)」を称揚しました」。

すでに書いたとおり、このくだりには呆れ返る。
『完全自殺マニュアル』の前書きの最後には、ある強烈な薬物を金属のカプセルのネックレスに入れて持ち歩いているという知人の例え話から、次のように書いている。
「(その彼は)『イザとなったらこれ飲んで死んじゃえばいいんだから』って言って、定職になんか就かないでブラブラ気楽に暮らしている。この本がその金属のカプセルみたいなものになればいい。

そして後書きには、「本当の狙い」としてこう明記している。
こういう本を書こうと思ったもともとの理由は、…自殺する人は心の弱い人なんてことが平然と言われていることにイヤ気がさしたからってだけの話だ。『強く生きろ』なんてことが平然と言われている世の中は、閉塞してて息苦しい。息苦しくて生き苦しい。だからこういう本を流通させて、『イザとなったら死んじゃえばいい』っていう選択肢を作って、閉塞してどん詰まりの世の中に風穴を開けて、ちょっとは生きやすくしよう、ってのが本当の狙いだ。別に『みんな自殺しろ!』なんてつまらないことを言ってるわけじゃない。

「世の中を生きやすくしたい」という主張は、「現実リセット」「ハルマゲドン」などとは正反対のものだ。
要するにすべては「生きづらさを和らげるため」なのだ。彼が「現実リセット」「ハルマゲドン」と書くところを、「生きづらさの緩和」と書けば済むことだ。すでに述べたとおり、『自殺マニュアル』も『人格改造〜』も、日常を楽に生きるために心の持ちようを変えることを訴えていた。
そもそも自殺を褒め称えた本がベストセラーになれば、自殺者が増えてもよさそうなものだが、逆に減ったのはなぜなのか?(註1)

「その次にドラッグを称揚し」については、「人格改造を称揚し」と言うのが当たり前だろう。自分が『自殺マニュアル』に続いて書き下ろしたのは人格改造の本であり(元のタイトルは「性格改造マニュアル」だった)、ドラッグを扱っているのはそのごく一部だ。
誰であれ、本人がこういう主旨だと言っている部分をあえて無視し、小さな部分を大きく取上げ、それが真の意図であるかのように書くのは、立派な捏造だと言える。
また、「主旨」には触れずに、「ハルマゲドン」について言った部分ばかり取り上げるという彼の手口にも以前から呆れていた。
宮台真司の過去の言動なら自分も色々と知っているが、それらのいくつかを拾い上げて、まるでオウムのような「宮台の概説」を作り上げることも可能だろう。そもそも彼自身がドラッグに肯定的だったではないか。

そして今も自分は著作活動をしているが、「最後に」か。こんな失礼な事実誤認を山ほどやらかして抗議を受けたら、ライターならおしまいか、相当の謝罪を重ねねばらないだろう。


●さて問題は、なぜ彼がここまでこちらの言論活動を、「まるでオウム真理教のように」見せようと躍起になっているのか、だ。

まず何よりも、90年代の彼がブルセラ、援助交際、デートクラブ等々の性風俗を全肯定し推進していた頃、彼の独自の分析によれば、日本はなんと「ハルマゲドンの時代」にあったそうなのだ。従って、ハルマゲドン、現実リセットなどという「オウム的なもの」にかすめ取られた同時代人がたくさん出たことにしなければならない。
ではなぜ「ハルマゲドンの時代」でなければならないのか? それは、自らのブルセラ・援助交際など性風俗の推進はそのなかにあって、「それに比べればマシだった」と強調したいがためだと思われる。実際にこの本のなかで、そのような言い訳と自己の位置づけが打ち出されている(しかしそもそも性風俗化することのどこが「日常を生きる知恵」なのか?)。
そのためには鶴見の言っていたことを、その代表例として徹底して「オウム的」に仕立て上げる必要があったのだろう。そう思えば、「鶴見は80年代後半にはハルマゲドンを称揚していた」というでっち上げを行わねばならなかった理由もわかるというものだ。

また「終わりなき日常」についても言わねばならない。彼が95年に言いだした「終わりなき日常」云々といったことは、自分はそれ以前の『自殺マニュアル』の前書きに、「身ぶるいするほど恐ろしい日常生活」(三島由紀夫『仮面の告白』より)や、「延々と続く同じことのくり返し」といった表現で書いている。
また翌94年の『無気力製造工場』という本に収録したエッセー、書評、対談等々のなかでも、「延々と続く同じことの繰り返しの日常」について散々言及している。つまりこれが『自殺マニュアル』刊行後の自分の基本主張だったのだ。彼が『終わりなき日常を生きろ』という本を出した時、自分の本を読んでいる人なら、それは元々誰が主張していることなのか明らかだったはずだ。けれどもそういうことを言うのは趣味ではないので、あえて言わずにここまで放っておいた(彼が後に言い出した「意味から強度へ」についても似た感覚を持っている)。
自分の90年代の諸著作の基本姿勢は、「延々と続く同じことの繰り返し」の「身ぶるいするほど恐ろしい」日常生活をどうやって楽に生きるか、というテーマで書いていたものだ。それは著作の主旨を普通に受け止めていればわかる。ドラッグでさえ微量を摂取して日常生活を乗り切るために使おうと提唱したほどだ。安全のために「微量」の量まで示した(註2)。
しかしそれを認めてしまえば、彼が言い出した日常論は、すでにある鶴見の日常論と区別がつかない。そのためこれもまた鶴見の日常論を「オウム的なもの」とすることで、自説はそれとは違う独自のものだと強調したかったからではないか。

●さて、このような無意味な議論にも意味を持たせるために、最後に、自分がなぜその頃「延々と続く同じことの繰り返しの日常」という考えを強調していたのかも書いておこう。
ひとつにはもちろん、当時の米ソの冷戦が終わり、「全面核戦争の危機」が去ったという時代状況がある。今からでは想像が難しいだろうが、それ以前にはボタンひとつ押し間違えれば、世界が大惨事に巻き込まれるという感覚があったのだ。
けれどもそれより大きな理由は、自分が学生時代から歴史学者・木村尚三郎らが提唱していた「(脱成長ではなく)低成長時代論」に親しんでいたからだ。自分は木村のゼミにまで出ていた。
日本の高度成長に翳りが見えたことを受けて、70年代から木村らは低成長時代論を掲げ、「ヨーロッパも日本も、農業革命期と産業革命から戦後のオイルショック頃までの二度の高度成長期以外は、毎日変わりばえのしない日常を生きる低成長の時代が普通だった」(大意)と論じていた。また「そうした時期には大きな社会の劇的変化よりも、日常の細部や内面に目が行く」(大意)とも語っていた(註3)。
今にして思えば、現在の脱成長論の先取りだった言える。自分は学生時代に木村の講義を受け、その理論に共感し、各著書の前書きなど至るところでその説を応用して書いている。
そしてこの低成長時代論から得たものは、「生きづらさから逃れて楽になる」という趣旨と密接に関連しながら、現在の自分の主張のなかにまで脈々と生きている。

あまりこういうことは言いたくないのだが、彼のような輩が出てくるのではっきり書いておかねばならない。
「イザとなったら自殺という手もあると思って」も「心のコントロール」も、10代後半から20代にかけて、心の病に苦しみつつ日常を少しでも楽に生きるために、自分が取ってきた手段だ。そういう経験のない人には、残念ながらそれは理解できないのかもしれない。
それにも関わらず彼の「鶴見の概説」には「生きづらさ」などということは一切書かれず、山ほどの「ハルマゲドン」と「現実リセット」が出てくる。これが事実を捻じ曲げていないと言えるだろうか。

最後に言っておきたいが、宮台さん、こちらにも色々言いたいことはあるのだが、少なくとも90年代にごく近いところにいたことは確かだ。その相手をことさらひどいものとすることで、自らを正当化するなんてことはやめようじゃないか。それは必ず自らに返ってくる。そして早速訂正してほしい。


(註1)自殺者数の推移(警察庁「自殺統計」より内閣府作成)。本が出た年とその翌年、自殺者が連続して減ったのだから、自殺防止に貢献したと言われてもいいくらいだ。
(註2)当時は、出回りだしたドラッグを、分量をはじめ、やり方もわからないまま摂取してしまう人が続出したという際どい問題があったため、誤用を防ぐためにという意図もあった。もちろん副作用についても詳細に書いている。
(註3)『家族の時代─ヨーロッパと日本─』(木村尚三郎、1985)など。
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2014年05月02日

都市コモンズを取り戻すために 『反乱する都市』書評

1310_harvey.jpg都市全体をコモンズと捉える視点が新鮮だった。そして私有化され奪われたコモンズは、取り返さねばならない、と。
それにしても、産業革命期のイギリスから、現代の中国をはじめとする「新興国」にいたるまで、なぜこうも同じように人は農村から都市へ流出して工業発展の下地作りをするのか? この流れは絶対なのか? ローカル化など起きないのか? その当然の結果としての世界的なスラムの拡大をどうすればいいか? 色々考えさせられる。分厚くて難しいが、面白い。

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人類は現在、急激な都市化の真っ只中にある。国連の予測では、二〇三〇年には全人類の六割が都市に住んでいることになる。都市化は特にアジアをはじめとする「南」の国々において顕著で、人口一〇〇〇万人以上のメガシティが続々と生まれている。ローカル化が叫ばれてはいるものの、これが現状だ。

本書では都市が作られていくこと自体を、資本の発展過程と見なして、その観点から世界の都市における反乱を概観している。著者は、マルクス主義を下敷きにした都市論や新自由主義批判の論客であるデヴィッド・ハーヴェイである。
そもそも金融から建設業に資金が流れることによって都市空間は拡大し、それが資本主義のさらなる発展の基礎となる。それゆえに都市には階級が、つまり少数の「占有する者」と「される者」が生まれる。日本でも都市の再開発は、野宿者の排除や古い商店街の立ち退き問題と不可分であることを思い起こさせる。世界の巨大都市におけるスラムも爆発的に拡大していて、人類の格差の象徴となっているのだ。
また著者は、一般的には自然環境に対して用いられる「コモンズ」という概念を都市にも当てはめる。確かに都市は、誰もが自由にアクセスできる共有物であるべきだが、ゲーテッドコミュニティに代表されるように、占有化の悲劇に苛まれている。こうして「都市への権利」を求める闘争が起きる。著者はその最新型を、カイロのタハリール広場、マドリッドのソル広場、ニューヨークのズコッティ公園などでの反乱に見る。これらは都市における平等を求める、反資本主義的な闘争でもある。著者はこうした都市革命の重要性を強調する。

まったくその通りだ、しかし、と思う。都市における平等は必要不可欠だが、仮にそれが達成されたとしても、やはり人類は都市への流入をやめないのだろうか? それでは根本的な解決にはならないのではないか? どこかの時点で人類が地方に分散しはじめることこそ、真に革命的な出来事であるように思える。
(『オルタ』2013年7月)
posted by 鶴見済 at 17:49| 書評など | 更新情報をチェックする

2014年04月07日

実は不正貿易批判の本『フェアトレードのおかしな真実』書評

1106322257.jpgあたかも環境にいいかのように装うこと、例えばほんの少しだけ環境にいいことをすることで、自社の環境破壊をごまかそうとすることを「グリーン・ウォッシュ」と呼ぶ。同様に、フェアトレードに配慮しているかのように装うことを「フェア・ウォッシュ」と呼んだりする。
この本を読むと、欧米ではそうしたグリーン・ウォッシュ、フェア・ウォッシュが溢れていて、そのせいでフェアトレードや倫理的ビジネスに文句を言いたくなるのだろうなと思わせる。頻繁に目にするフェアトレード認証ラベルの問題点も気になるところだろう。『コーヒー、カカオ、米、綿花、コショウの暗黒物語』もそんな批判を展開していた。
けれども、企業がフェア・ウォッシュすらしようとしない、認証ラベルですらめったにお目にかかれない日本で、その批判だけを輸入して声高に論じても意味がない。トレードそのものへの批判が広まって、「ウォッシュ」程度でもいいから企業が不正貿易を気にかけるようになるまでに持っていくことが当面の目標だ。
この本の原題は『Unfair Trade』であり、倫理的ビジネス批判も含んではいるものの、主要部分は不正貿易批判と言える。

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タイトルにあるようなフェアトレード批判だけの書ではない。英国のテレビキャスター、ジャーナリストである著者が、「北」の市場に食料や製品を供給する「南」の生産現場を訪ねた秀逸なルポルタージュだ。その現場から、貧困や環境破壊に配慮しているとされるフェアトレードなどの「倫理的」ビジネス全般の有効性を検証している。
 米国向けのロブスター漁が行われるニカラグア、電子機器の製造を支えるコンゴのスズ鉱山と中国の工場、麻薬の原料となるケシからサフランへと作物転換を試みるアフガニスタン。ラオスのゴム、タンザニアのコーヒー、コートジボワールの綿…。貧しい村々や紛争地に赴き、ブラックマーケットにも果敢に乗り込む取材力は見事だ。

ただしそこから著者が導くのは、グローバル資本主義が貧者を搾取している、という結論ではない。むしろ「資本主義は人々を貧困から救うもっとも有効な手段」と主張し、既存の承認に頼らずに独自の「倫理的」なビジネスを開拓する起業家たちに希望を見出す。
なぜならこれらの現場では、「倫理的」ビジネスが必ずしも貧者の役に立っているとは言えないからだ。危険に身をさらしても、武装集団の資金源になろうとも、より実入りのいい仕事を選ぶほかない人々がいる。こうした事実は「倫理的」ビジネスの支持者も真摯に受け止めねばならない。   
また「倫理的」という承認ラベルを利用した大企業のイメージ戦略や、それを取り扱うフェアトレード財団などへの批判も手厳しい。

ただこうした批判が、今の日本にそのまま適用できるかどうかは別の問題だ。フェアトレードも認証ラベルもそれほど普及していない日本では、まずは「非倫理的」ビジネスが「南」で行っている搾取の実態が知られるべきだろう。本書はそのためのテキストとしても絶好だ。われわれの社会は、まだその段階に止まっている。
(2013年10月共同通信配信)
posted by 鶴見済 at 12:30| 書評など | 更新情報をチェックする

2014年04月02日

新しい形のつながり、共有、贈与『ニートの歩き方』書評

51SWyFzNj8L__SL500_AA300_.jpgキッパリとした「だるさの肯定」がいい。面倒臭いものは面倒臭いのだ。そして脱成長、つながり、贈与等々は、環境系の人たちの専売特許ではない。こうした方面からも働きたくないという脱成長、ネットを通した新しい「つながり」、新しい形の贈与や共有が追求され実践されている。自分好みの価値観と言える。

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日本人ほど頑張ることが好きな国民が他にいるだろうか? 日本が工業製品の輸出に特化できた理由は「勤勉な労働力が豊富にあったから」というのが定説であり、電車は日夜分刻みの比類のない正確さで運行している。「頑張ります」「頑張ってください」という言葉抜きには、日常会話さえ難しい。
けれども我々はいつまで頑張らなくてはいけないのか? 頑張って技術を進歩させ生産効率を上げたのに、働くのが楽にならないのはおかしいではないか。

ニートの生き方について書かれた本書は、この社会を支配する“努力教”に対して、「そんなに働かなくていい、もっといい加減でいい」と反旗を翻す。現在三三歳の著者は通学や通勤が苦手で、就職しても社内での仕事がほとんどなく、こんな人生は嫌だと三年ほどで退社。その後は住居など生活上のインフラを最少限にとどめ、共有や贈与や小さなコミュニティを大切にしながら暮らしている。生活の中心にあるのはインターネットで、必要なお金はネットでの広告収入などで賄っている。
こうした生き方を選んでいる人は、最早少数ではない。そして社会の表舞台にこそ登場しない彼らのなかでも著者が異彩を放つのは、ネガティブに見られがちな働かない生き方を肯定的に捉えかえし、その正しさを堂々と主張しているところだ。

さらに著者は、オープンソースのプログラムの方法論を取り入れて、独自のシェアハウスの運営の仕方をネット上に公開し、勝手に広めてくれる人を増やしている。こうして現実の社会を生きやすく改造(ハック)することが、著者なりの社会変革なのだ。
 高度成長期に全員に押しつけられた生き方が、今でも最善であるはずがない。むしろその頑張る空気こそが、この社会の生きづらさの原因なのではないか。著者に限らず、ますます多くの人がそう感じているはずだ。
(『東京新聞』2012年9月23日)
posted by 鶴見済 at 17:50| 書評など | 更新情報をチェックする