2008年04月30日

自動販売機というムダ

広告用画面のある自販機.jpg自動販売機設置台数と一台あたり人口数.gif「缶コーヒーを飲用する習慣は、日本特有のものといえると思いますが、自動販売機の存在なしではここまで市場として成長しなかったのではないでしょうか。清涼飲料、特に缶コーヒーの自販機もまた海外ではほとんど見られない日本だけの販売手段です。じつは、缶コーヒーの7割は自販機で購入されています。日本の缶コーヒー市場は、日本独特の自販機という販売手段があったからこそ、これだけ大きくなったのだと思います」 

缶コーヒーを飲む習慣が日本にしかなかったのにも驚くし、その中身や容器の原材料であるコーヒー豆やアルミニウムや鉄がどこでどんなふうに作られ採られて、はるばる運ばれ、ここでひとつの缶コーヒーになっているのかを思うと、そのムダさ加減に気が遠くなるようだが、とりあえずその問題は置いておく。
より嫌なのは、その缶コーヒーの存在基盤となっているらしい「自動販売機」だ。地球環境のことに言及するまでもなく、わざわざ飲み物やタバコを売っている店の前に並んでいるのを見ただけでも、ムダに多いことが明らかなこの自販機。一体誰がこんなに増やしたのか?

自動販売機は日本に約540万台もあって、台数ではアメリカに次ぐ数字だ。けれども、24人に一台という割合も年間約7兆円という売上げも世界一である。7兆円というと、国内のコンビニエンスストア全体の売上げに匹敵し、百貨店全体に迫っているという驚くべき額だ。
しかも、治安の関係でアメリカでは外にある自販機は少ない。つまり、こんなに街頭に自販機が置いてあるのは日本だけなのだ。
なかでも飲料の自販機は260万台と最も多く、その一年間の電気代は全自販機の90パーセントを占め、原発1基分の年間発電量に相当してしまう。

ちなみに飲料自販機を一番普及させてきたのは、現在100万台近くを設置しているコカ・コーラ社だ。この会社は、コーラ飲料の原料輸入が完全自由化された1961年の翌年に、国内ではじめての瓶詰め飲料自販機の設置を開始。以後、自販機を販売道具として積極的に活用し、日本での自販機の普及に貢献してきていて、今でも自販機への依存率が高いことで知られる。あの真っ赤なコカ・コーラの自販機は、この会社のグローバル戦略の日本基地みたいなもので、マクドナルドのMマーク“黄金のアーチ”に相当する。

「こんなにたくさんあるのは日本だけ」ということは、そんなものはある程度「なくてもいい」ということなのに、なぜ飲料自販機は減らないのか?

それは日本の飲料メーカーがすでに自動販売機に依存してしまっているからだ2)。飲料自販機は年間3兆円も稼いでくれる、メーカーにとって不可欠な直売店舗なのだ。
しかも仮に元が取れない自販機であっても、目立っていさえすれば、それ自体が広告塔の役目を果たしてくれる。
だからこそ、飲料メーカーやその下請けの自販機会社は、スペースの提供者に電気代だけ負担してもらって、売上げの一部を渡し、あとの補充や空き容器の始末等はすべて面倒をみるという日本独自の戦略を取ってまで自販機を置いてもらおうと励んできた。
自販機が「飽和状態」にあると言われている(つまり「もう置くところがない」)今となっては、他社のスペースを奪い合ってまで、「環境に優しい自販機」や「社会貢献する自販機」、さらには「景観を損なわない自販機」まで次々と開発して、自販機での販売ルートに固執している。3)


こういうことを調べていて思い知るのは、企業側の商品を売るための尋常でない熱心さだ。

本当に地球環境のことを考えているのであれば、単に自販機や商品アイテム数を減らしていけばいいのだ。そうすることが求められているのだし、一番簡単なやりかたであるはずなんだが、企業というやつはその定義からして「営利を目的としている」から3)、そもそも儲けを減らすなんていう方向では考えないらしい。

企業を動かしてる人は、そうやって売り買いが盛んになって、企業が儲かって、経済が成長すれば、そのカネが人々にまわって、みんなが食べていけるようになる、などと都合のいいことを考えているのかもしれない。ここまで企業が幅をきかせた社会では、それが道理であるような気もしてくる。
けれども実際には景気なんかよくなっても、そのカネは一部の人にしかまわっていない。そもそもみんなが食べていくためにムダなものを作り続けなければならないのなら、何かがおかしいのだ。本来は、食べていくためには、缶コーヒーを作って自販機で売るのではなく、単に食べ物を作ればよかったんじゃないのか?4)
我々の人生がこんなに空しいのは、こんなムダな生産や消費をして生きていくしかないこの社会のせいでもあるはずだ。



1)
サントリーの飲料開発設計部員の発言。『サントリーー知られざる研究開発力』(秋場良宣著、ダイヤモンド社)より。

2) ちなみに、飲料業界では「せんみつ」という言い回しがあって、「1000に3つくらいしか残る新製品はない」という意味。飲料の商品アイテム数が格段に多いことも日本の特徴で、この傾向もひとつには自販機の品揃えを充実させる必要性から来ている。また缶コーヒー市場は今や、清涼飲料業界最大の市場になっている。

3) 辞書(大辞泉)には、「【企業】 営利を目的として、継続的に生産・販売・サービスなどの経済活動を営む組織体。また、その事業。資本主義経済のもとでは、ふつう、私企業をさす。とある。

4) 少なくとも国全体としては、カネで食べ物を海外から買うのではなく、自分たちで作る方向に向けていかなきゃならないことは確かだ。

参考:

『自動販売機の文化史』 鷲巣力著、集英社新書
『逆欠如の日本生活文化―日本にあるものは世界にあるか』 園田英弘編著、思文閣出版
『自販機の時代―“7兆円の売り子”を育てた男たちの話』 鈴木隆著、日本経済新聞出版社

日本自動販売機工業会  http://www.jvma.or.jp/ 

飲料自販機な・る・ほ・どBOOK!(企業側の宣伝用パンフレット)
http://www.jvma.or.jp/information/naruhodo.pdf 他


図左は、自動販売機設置台数の推移と、一台あたりの人口数の推移(平成18年版『環境白書』環境省編より)

http://www.env.go.jp/policy/hakusyo/h18/html/kh0601010100.html

図右は、広告映像を流す液晶画面付きの、まさに広告塔としての、バカげたコカ・コーラの自販機

posted by 鶴見済 at 22:48| 人間界の経済

2008年03月24日

日本人はなぜパンを食べるのか?

小麦の輸入量と国内生産量の推移.gif日本の食品自給率の推移.gif「いまになって、日本では『米を見直す』キャンペーンを始めていることは承知しています。しかし、すでに小麦は日本人、特に若い層の胃袋に確実に定着したものと私たちは理解しています。今後も消費は増えることはあっても減ることはないでしょう。私たちの関心は、とっくに他のアジア諸国に移っています。日本の経験で得た市場開拓のノウハウを生かして、この巨大な潜在市場に第二・第三の日本を作ってゆくのが今後の任務です。日本のケースは私たちに大きな確信をあたえてくれました。それは米食民族の食習慣を米から小麦に変えてゆくことは可能なのだということです」 1)

これはアメリカ西部小麦連合会の会長の、つい最近ではなく、70年代の終わり頃の発言だ。
日本人は第二次大戦の終戦まで、一般にパンを主食にした「洋食」を食べる習慣はなかった。戦前まではご飯に味噌汁、漬物あたりを基本にした食事が普通で、こうしたコメ中心の食事を何千年もかけて、ゆっくりと作り上げてきたはずだった。2) それがほんの数十年の間でここまで劇的に変わってしまったのは、なぜなんだろうか?

1950年代、アメリカは余った小麦の輸出先を探していて、都合のいいことに日本は食糧難で困っていた。敗戦のショックで、自分の文化にも自信を失ってたことだろう。そこでアメリカ西部小麦連合会の主導で、日本にパン食を定着させ、末長く小麦輸出の得意先にするべく「小麦戦略」が始まったのだ。
まずは学校給食をパンと脱脂粉乳にし、アメリカの農務省が資金を出した「キッチンカー」という栄養指導車が、小麦を使った料理を実演しながら全国を回った。パン屋の育成事業も展開され、西洋から導入された栄養学はコメ食による栄養の偏りを警告し、パン、乳製品、肉のよさをアピールした。
「日に一度 パンをかかさぬ母の愛」と書かれた看板を掲げた宣伝カーまで登場した(この時点ではまだ、一日に一度のパン食が目標だったのだ)。
こうしてコメよりもパン、味噌汁より牛乳が体にいいというイメージが作られていった。

さらに1960年に池田勇人首相の打ち出した「所得倍増計画」により、日本を工業国として立国することが国策となり、国産の小麦(ひいいては国内の農業)は輸入産品によって壊滅的な打撃を受ける。
1965年には、アメリカ小麦の輸入を1億ブッシェル(272万トン)の大台に乗せる目標が定められ、小麦製品であるアメリカンタイプ・サンドイッチ、洋菓子、インスタントラーメン、マカロニ・スパゲティの各普及事業も始まった。
この時点で我々の食生活は、ほぼ今のように変えられてしまったも同然なんじゃないだろうか?
そして70年代後半には、パンへの需要も飽和点をむかえたと言われ、冒頭の発言につながるわけだ。3)


ここまで短期間に食生活が変わった例は人類の歴史でも稀だとまで言う研究者がいるほど、我々日本人の食べるものは変わった。では、それによって得をしたのは誰だろうか?

アメリカから小麦を輸入すると言っても、アメリカ政府から日本政府に直接小麦が送られるわけではない。実際に畑で作られた農作物を送り込んでくるのは、商社や多国籍アグリ(農業)ビジネスだ。輸入小麦は、「輸入相手先生産者 ⇒ 穀物輸出業者 ⇒ 日本の輸入商社 ⇒ 日本の総合食料局 ⇒ 製粉メーカー ⇒ 実需者」というルートでやってくる。

アメリカなら「カーギル」を筆頭とする巨大穀物商社が、内外の政策に深く関与しながら貿易を拡大しているし、4) 日本では三井物産、三菱商事、丸紅、全農などの総合商社やアグリビジネスが小麦の輸入も扱ってきた。
今でも我々日本人が食べる小麦は9割が輸入品であり、そのうち5割以上はアメリカからの輸入に頼っている。これらの多国籍アグリビジネスが、日本の食品貿易をどのくらい支配しているか示すデータは存在しないけれども、いかに巨額の利益をあげてきたかは想像に難くない。

戦後間もない頃の日本の栄養学が、何もかも間違っていたのかどうかはわからない。けれども、不足しがちな栄養素があったとしても、何もいきなりパン食に切り替える必要はなかったし、いまだに輸入に頼りながらそれを続けなければならない理由もないはずだ。
今ではむしろアメリカで、和食が健康にいいと宣伝されているんだから。

ヒトは生きている限り、必ずものを食べる。生き物なのだから当然のことなんだが、それを“ビジネス・チャンス”とか“マーケット”などと考える人たちもいる。5)
彼らのせいで我々の「食べる」という当たり前の行為が、ひどく不自然になっているらしい。過食症だってもしかしたら、そんなところに原因があったりするかもしれないのだ。


1) 『日本侵攻 アメリカ小麦戦略』 高嶋光雪著、家の光協会
2) 従来の日本の料理では、獣肉と油脂の使用は極めて少なく、乳製品の使用は皆無だった。

3) それでもパンの生産量はその後、少しずつ伸び続け、ようやくここ数年になってわずかに減り始めている。
パンの生産数量(農林水産省)

http://www.pankougyokai.or.jp/production/images_production/data5.pdf

4) 世界の穀物の輸出入はカーギルとアーチャー・ダニエルズ・ミッドランド(ADM)の2社による寡占状態にある。カーギル社は1956年に日本に進出している。

5) ちなみに、日本の全産業のなかで、最も多くの広告費を使っているのは食品産業だ。日本は世界でもアメリカに次いで2番目に食品の宣伝・広告費の多い国であり、アメリカと日本だけで世界の食品の宣伝・広告費の半分以上を使っている。

参考:

『アグリビジネス論』 中野一新編 有斐閣

『食と商社』 島田克美他著 日本経済評論社

『穀物メジャー ─食糧戦略の「陰の支配者」』 石川博友著、岩波新書、他

図の左は日本の各食品の自給率の、右は小麦の輸入量と国内生産量の推移(農林水産省/食料需給表より)

posted by 鶴見済 at 13:57| 人間界の経済

2008年03月01日

『remix』に小沢健二の記事を書いた

remix 2008.4.jpg今出ている音楽誌『remix』4月号の“JAP ROCK──00年代”特集のなかで、小沢健二の00年代後半の活動(プラス自分の考え)についての原稿を、依頼されて書きました。
「灰色」とは何か、我々の敵は誰か、といったことに興味がある人は読んでみてください。
同じ特集中の七尾旅人氏のインタビュー記事もいいです。


http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/remix/article_270_39.jsp

posted by 鶴見済 at 22:32| 日記

2008年02月21日

マクドナルドはなぜダメなのか?

アルゼンチン ブエノスアイレス 2003年.jpgある調査によると、日本人が一年間に外食する回数は、ひとりあたり198回で、アメリカを抜いて世界一多かった。1) 
世界一自分の食事を自分で作らない国民というのもマズイが、同じくマズイことに世界最大の外食チェーンであるマクドナルドの店舗数では、日本は本国アメリカに次いで第2位で、3位以下を大きく引き離してしまっている。つまり日本は世界最大のマクドナルドの輸入国になっているわけだ。2)
もともとハンバーガーはどこの国の伝統料理でもないが、パンに焼いた牛肉をはさむという日本の伝統料理からはほど遠い(もちろんほぼ全ての材料を輸入に頼っている)この料理が、なぜ、いつから我々日本人の腹に詰め込まれるようになったのか?

日本のマクドナルド1号店ができたのは1971年で、その前年にはケンタッキー・フライド・チキンの、翌72年にはモスバーガーとロッテリアの1号店もオープンしている。
70年はその業界では「外食元年」と呼ばれる年で、69年の「第2次資本自由化」によって、レストラン事業の外国資本の参入が100%自由化された影響が大きかった。3)
ここから日本人は少しずつ、外食を、それもファストフード店で外食をするようになっていった。それ以前はこういうものがなくても、人々は普通に生きていたわけだ。
この後日本の企業も、牛丼や回転寿司なども含め、マクドナルドを真似た営業形態、チェーン展開等々を始めるようなり、「飲食店のマクドナルド化」が進んでいく。3)

マクドナルドはレストランとは言っても、皿もナイフもフォークもコップも、一切の食器がないので、上げ下げしたり食器を洗ったりする必要がない(その代わりに夥しい紙を浪費する)。腕のいいコックもウエイトレスもいない。人件費節約のため、そういうふうにレストランを改造したのが、マクドナルドのアメリカ第1号店だったのだ。
そこで料理人がやっているのは、実は料理ではなく、工場で行なわれる単純な組立作業に近い。ハンバーガーを作るには、肉を焼き、玉ねぎとピクルス、ケチャップとマスタードを加え、パンではさむ。これらの作業は徹底的にマニュアル化され、世界中どこに行っても同じ製品は同じ分量の材料、同じ味で作られる。ここに初めて工場の原理が、飲食店に応用された。4)
こうした画一化、単純化、合理化、数量化、計算化、制御……をもって初めて、マクドナルドは世界に展開できたのだ。
さらにこうしたシステムは、雇用形態まで含めて、社会全体に浸透していき、より由々しい「社会のマクドナルド化」5) を進めてしまう。


とは言っても、マクドナルドをそんなに過大評価する必要もない。6) マクドナルドもファストフードも、2000年代には健康志向の反発にあって世界的に伸び悩んでいる。
マクドナルドはある種の象徴なのだ。例えば、ドルという通貨、英語という言語、ウィンドウズというパソコンのOS……等々、単一のもので世界を覆いつくそうとする勢力のなかでも最もわかりやすい例なのだ。グローバリゼーションのシンボルと言ってもいい。

こうしたファストフード化に、と言うよりもっと広く「社会のマクドナルド化」に対抗する運動のひとつが「スローフード運動」だ。

これはもともとは、ローマにマクドナルドがオープンしたのをきっかけにイタリアで始まった運動で7)、その地域地域にある多様な食材を多様に料理して、多様な味を、ゆっくりと楽しもうと、そして農家と消費者とをつなげながら農業を守り、ひいては文化や生物の多様性を維持しようとしている。
つまり、食べ物を通して社会全体を本来自然界がそうである通りの姿に戻そうとしているわけだ。8)

本来生物界は多様であることをよしとしている。
日本にマクドナルドを広めた張本人である藤田田(ふじた・でん)元日本マクドナルド社社長は「勝てば官軍」「優勝劣敗」といった言葉を好んだが、優れた生物種なんてものがあるとしたら、それは環境の変化に柔軟に対応できて、一度に全滅してしまわずに生き残れる、多様な遺伝子を持った生物種なのだ。

まあそこまで考えなくても、単に自分の好きなように、(なるべく国内産の材料で)自分のメシを作って食べるだけでも、立派に反グローバル経済運動なわけだし、さらに言えば、スピーディにテキパキと画一化するのが嫌いだったり苦手だったりする人、そうすることが偉いとされる社会が居心地悪い人は、十分にスロー系であり、反ファスト、反マクドナルドなんだと思う。



1)
『食料の世界地図』 エリック・ミルストーン他著、大賀圭治他訳、丸善、より。2位アメリカ、3位イギリス、4位ドイツ、5位フランスとなっている。
2) 3位以下は、カナダ、ドイツ、イギリス、フランス、オーストラリア、中国……と続く(2004年の資料より)。
3) 外国産のものが入ってきた経緯を調べてみると、いつもこの「自由化政策」に行き当たる。つまり、我々が求めたから入ってきたわけではないのだ。
4) 参考:『ファストフードが世界を食い尽くす』 (原題“Fast Food Nation”)エリック・シュローサー著、楡井浩一訳、草思社)
5) 参考:『マクドナルド化する社会』 ジョージ・リッツア著、正岡寛司監訳、早稲田大学出版部。著者が提唱する有名な「マクドナルド化」の4要素は、効率性、計算可能性、予測可能性、制御、である。
6) 日本でマクドナルドが“小僧寿し”を抜いて業界第1位になったのは、日本進出から10年以上もたった82年のことだったりする。
7) 日本では考えられないことだが、ヨーロッパではマクドナルドの出店に対して大規模な反対運動が起きる。フランスではジョゼ・ボヴェを中心とする農民の反対運動が有名で、『地球は売り物じゃない!-─ジャンクフードと闘う農民たち─』(ジョゼ・ボヴェ他著)という本に詳しい。
8) スローフードジャパン http://www.slowfoodjapan.net/about_sf/illust.html

写真は、南米・アルゼンチンの首都ブエノスアイレスのマクドナルド前で、デモの人がアメリカ人人形を焼いているという日本では考えられない光景。

posted by 鶴見済 at 23:07| 人間界の経済

2008年01月20日

なぜタバコの輸入が増えるのか?

tobacco.gif日本は世界最大の、(製品としての)タバコ輸入国だ*)。
タバコの消費量も世界3位**)、喫煙率も世界5位***)という、世界でも特によくタバコを吸う国民でもある。
街のタバコ自販機を見ると、おびただしい数のブランド品が、各々「ライト」「スーパーライト」「エクストラ」「スリム」「ロング」だのと、際限なくシリーズ化されて売られている。あの種類の多さは確かに異常だ。
では、日本に輸入タバコが入ってきて、あんなに種類が増えたのはいつからなのかというと、そんなに古い話ではない。1984年以前には、輸入タバコのシェアは2%以下であり、ほとんどなかったとさえ言える。

日本は明治時代にタバコの国による専売制をしいて以来、世界で猛威をふるうグローバル・タバコ企業を退けてきた。
けれども1985年に、当時の中曽根内閣はタバコ市場の自由化をアメリカに求められて、専売公社を民営化し、「日本たばこ産業(株)=JT」を設立***)、90%だった関税も87年までには0%にしてしまった。この87年には、アメリカは紙巻タバコの全輸出量の94%を日本に向けているのだ。
これ以来、日本国内の農業における葉タバコの生産も、衰退の一途をたどり、今では輸入タバコの国内のシェアは3分の1を越えている。
グローバル経済のもたらす弊害が、ここに典型的に表れている。
またJTまでもが、今や海外のタバコ企業を買収する世界でも3番目に大きいグローバル・タバコ企業と化してしまっているのだ。


そもそも世界中のヒトが、タバコという植物の葉を燃やして煙を吸うようになったのもまた、それほど大昔の話ではない。
もともと「喫煙」は、コロンブスが15世紀末にアメリカ大陸からヨーロッパに持ち帰ったものだ。その後16世紀末頃から、ヨーロッパやイスラム、中国の商人によって広められ、17世紀半ばまでには日本も含めた世界中に伝わっていた(その拡大のスピードはコカコーラやリーバイスのジーンズよりも速かったと言う研究者さえいる)。
産業革命以降は、イギリスやアメリカのタバコ会社が目まぐるしい合併と吸収を繰り返しつつ、農民から葉タバコを買い叩いて巨大化し、アメリカやヨーロッパ市場の独占合戦を展開した。
20世紀に入ると、ブリティッシュ・アメリカン・タバコ(BAT)社やフィリップモリス社などのグローバル・タバコ企業が台頭して、世界中をそのマーケットにするようになった。

そして今彼らは、タバコの健康への害が明らかになって成長が見込めなくなった欧米の市場から、まだその認識が甘く、タバコの消費量が伸びている地域、特にアジアへとその矛先を向けている。日本への輸出増大も、その傾向の表れなのだ。
「自分たちは健康によくないものを売っている」と認めながらも、売上げを落とすわけにはいかない。それが企業精神というものだ。
喫煙者であれ非喫煙者であれ(自分は前者だが…)、我々は確かにそのとばっちりを食っている。


*)WHO報告、2002年。
**)消費量1位は中国、2位はアメリカ。WHO報告、2002年。
***)1位から順に、ギリシア、トルコ、オランダ、ハンガリー、日本。OECD報告、2007年
****)中曽根内閣は、専売公社だけでなく、電信電話公社(現・NTT)、国有鉄道(現・JR)の3公社をすべて民営化するという大構造改革をやった。

参考:
『タバコの世界史』 J・グッドマン著、和田光弘他訳、平凡社
『タバコの歴史』 上野堅實著、大修館書店
The Tobacco Atlas WHO http://www.who.int/tobacco/statistics/tobacco_atlas/en/ 他

図は、HP「たばこと健康」厚生労働省 http://www.health-net.or.jp/tobacco/menu02.html より

posted by 鶴見済 at 19:52| 人間界の経済

2007年12月23日

水は私有できるのか?

india.jpgヒトは成人で1日約2.5リットルの水を吸収し、排出している。ヒトが生きている限り、これだけの水は絶対に必要になるのだから、この水を商品として売ることができたら、どんなに安定した需要のある巨大なマーケットになることだろう。
我々のまわりにボトル入りの水があふれだしたここ20年ほどの間に、この夢は世界的に現実のものとなってきている。


まずグローバル企業は、安全に水が飲めない地域へボトル入りの水を売り込むようになった。その結果、貧富の差が安全な水の入手を左右するようになり、またコカコーラ社などは、インドの工場で地下水を汲み上げすぎたために、近隣の井戸が干上がってしまい、住民から訴訟を起こされ、一度は商品の製造販売の禁止を命じられている。

またグローバル企業は、同じ時期に世界に広まった新自由主義政策の下で、水道事業の民営化(=私営化)という形で水を商品にしはじめている。水道民営化が実施された国は「北」「南」を問わず、世界で100カ国以上におよび、特にフランスの大手2社(スエズ、ヴィヴェンディ)が、その事業全体の70%以上を独占している。
このスエズ社のCEO(最高経営責任者)の言葉が振るっている。

「水ほど効率のいい商品はない。普通はただで手に入るが、わが社はそれを売っている。何しろ、この製品は生命にとってなくてはならぬものだから」*)

けれども、こうした水企業の謳い文句どおりに水道料金が安くなった事例は乏しい。南米ボリビアのコチャバンバ市では、民営化の結果水道料金が3倍にも値上がりし、料金を払えない市民の反対にあって、水道が公営に戻された経緯がある。


しかし、だ。そもそも、水というものは私有できるんだろうか?
地下水までが、最初に土地を囲った者の私有物なのか? それどころか、水はヒト全員のものでも、生物のものですらないんじゃないのか?

地球ができたのは約46億年前だが、すでにその5億年後には、今とほぼ同量の水が地球上にあったとする説が有力だ。そして生命の誕生は、それから3億年後の38億年前である。
生物はその後、長い間水から出ることができず、我々のような陸上生物が出てきたのは、ほんの5億年前なのだ。

ヒトの体の60〜70%は水だが、今でも水中にいるクラゲに至っては、体重の99%以上が水であり、その水分含有率は、牛乳より高い(!)。

つまり、生物は水に依存しているが、水は生物には依存していない。**) 生物なんかいなくても、水はちゃんと存在しているのだ。
こうしたことを踏まえれば、「企業による水の私有化」なんてものが、いかに人間中心主義的でおこがましいことかがわかるだろう。


資本主義経済の(あるいはグローバル企業の)最後のフロンティアは、「公共物」なのだ。つまり、誰のものでもないので公で管理していたものを商品化・営利化すること。今では、水や種子といった共有財産、あるいは教育や医療といった公共サービスが狙われている。いずれは「空気」を商品化したがってるかもしれない。

「普通はただで手に入る」ものをカネで買うようになっていくのを、多くの人が望んでいるとは到底思えない。
「フランスから輸入した単なる水を買って飲む」なんていう、よく考えたらとんでもなく無駄で異常な習慣が広まって喜ぶのは、「売っている人」だけじゃないのか?
だからこそ
、今世界中で「世界は売り物ではない」と叫ぶ、グローバル経済に反対する運動が巻き起こってるのだ。


*)『「水」戦争の世紀』 モード・バーロウ、トニー・クラーク著、鈴木主税訳、集英社新書、より
**)「水に溶ける」という物質の性質を利用しないと、生物はあらゆる代謝が行えない。

参考:
『世界の<水道民営化>の実態──新たな公共水道をめざして』 コーポレート・ヨーロッパ・オブザーバトリー、トランスナショナル研究会著、佐久間智子訳、作品社
『ウォーター・ウォーズ──水の私有化、汚染、そして利益をめぐって』 ヴァンダナ・シヴァ著、神尾賢二訳、緑風出版
『生命にとって水とは何か』 中村運著、講談社ブルーバックス、


写真は2004年にインドで世界社会フォーラムが開かれた時の、コカコーラに対する抗議デモ

posted by 鶴見済 at 23:56| 人間界の経済

2007年12月03日

いつから水を買うようになったのか?

mizu.bmp「水を買う」──水に恵まれ、水道水も安全に飲め、その味の評判もいいこの国で、なぜこんな習慣が広まっているのか?

例えば、エビアンやボルヴィックといった銘柄の水(ミネラルウォーター)を飲む場合、わざわざフランスから水を輸入して飲んでいることになる。こんなものを飲むのをやめて水道水を飲むだけで、どれだけの自分のカネと、ペットボトルの原材料になり輸送にも使われる石油と、労働力の節約になるか知れない(水道水なら、5リットル飲んでも1円にも満たないほどの料金である)。

だというのにこの国は、06年には約55万キロリットル、1リットルのペットボトルにして5億本以上の水を輸入してしまっている。


一般の日本人が水を買って飲むという習慣は、83年より前にはなかった。なぜ83年なのかというと、その年に初の一般向けミネラルウォーター『六甲のおいしい水』がハウス食品から、カレーを食べる時に飲む水用に発売されたからだ(確かに以前は、日本人もカレーの時は珍しく食事中に水を飲むと言われていたように思う)。*)

89〜90年には、ミネラルウォーター市場にサントリーやキリンの子会社が参入し、一般向けの水の消費量は、ようやく業務用を上回る。
また90年代にはエビアンのボトルを首からぶら下げる“ボトルホルダー”なんてものまで注目されてしまい、若者が街でミネラルウォーターを飲むのがカッコイイかのような宣伝がなされ、輸入水のシェアが大きく伸びてしまう。
こうしてミネラルウォーターは着実に生産量を伸ばし、今では年間2百万キロリットル以上を生産・輸入し、清涼飲料の12.7パーセントを占めるに至っている。

駅から水飲み場がすっかり撤去されてしまった後、06年に「JR東日本ウォーター・ビジネス」なんていうミネラルウォーターをはじめとする清涼飲料を売る専門の会社も設立された、なんてことも非常に示唆に富む。


こうして見ると、ここ20年か30年くらいの間に、大企業は水をカネ儲けの道具にしはじめたことがわかってくる。
この「水の商品化」は、注目すべき世界的な傾向でもある。アメリカでは、日本に先駆けて、70年代からミネラルウォーターの生産が伸びているが、今1、2位を占めるペプシとコカコーラ社の製品は、水道水を浄化したものにすぎないのだ。
我々はもともと買う必要もない「単なる水」を、まんまと買わされている。
そしてこうした大企業が狙っているのは、水に限らず、「コモンズ(共有財産)」全般の商品化なのだ。(続く)


*)
 ウーロン茶や紅茶、スポーツドリンクといった、“限りなく水に近い”清涼飲料が本格的に発売されたのも80年代からで、緑茶に至っては90年代からである(ペットボトル入り清涼飲料が登場したのは82年だった)。

参考:

ミネラルウォーター類 国内生産、輸入の推移(日本ミネラルウォーター協会)

http://www.minekyo.jp/07-1n.pdf
日本のミネラルウォーターの歴史(同)
http://www.minekyo.jp/rekisi.pdf
清涼飲料の50年(全国清涼飲料工業会)
http://www.j-sda.or.jp/annai/50nen/sokuseki.pdf
『ウォーター・ビジネス』 中村靖彦著、岩波新書、他

posted by 鶴見済 at 18:54| 人間界の経済

2007年11月06日

仕事を選べないという問題

rokkasyomura.bmp青森県の六ヶ所村にある使用済み核燃料再処理*)工場のことを考えていくと、この過疎化した村には今のヒトが直面してる問題が凝縮されているように思える。

エネルギーの問題に限らず、「どうやって働いて生きるか」という問題についても考えさせられるのだ。

来年2月に本格的に動き出す予定のこの施設については、かつて反対派と推進派が2派に分かれて対立していたのに、今では人口1万2千人の村民中、反対しているのは5〜6人程度になってしまっている。村会議員の3分の2は、建設関係者だ。
反対派がいなくなった背景には、国がカネをばら撒いて黙らせたという経緯もあるようだが、なによりも、すでに多くの人の生活がこの工場やその関連施設で働いた収入で成り立ってしまっているという事実がある。

もちろん本来ならば、村に仕事がないなら、核処理工場を建てて仕事を作るのではなく、従来からあった漁業や牧畜業を復活させたり、あるいは観光業を興したりするために国がカネを使うべきなのだ。


が、別の意味で深刻なのは、この「すでにそこで働いたカネで生活してしまってるから反対できない」という構造が、この我々がいる企業社会全般についても言えるのではないか、ということだ。

原子力施設に限らなくてもいい。軍需産業でも証券でも広告でも、あるいはなくてもいい缶飲料の新商品の製造でも、すでに多くの人がそれに関係する経済領域で働き生計を立ててしまっている以上、それらの人は、労働条件の改善を要求することはあっても、その産業が存在すること自体をもう否定できなくなってるんじゃないか?
実際に、生きていくためには職業など選んでいる余裕はなく、どこかの企業のために働かざるを得ないというのが、六ヶ所村に限らずこの国全体の現状でもあるのだ。

何百年か前までは、ヒトは「カネがないと生きていけない」わけではなかった(食べ物がなければ生きていけなかっただろうが)。
それをここまで経済やカネに依存せざるを得ないところまで持っていった企業や経済界には、実に上手くやられてしまっていると思う。


*)国中の原発で出た使用済み核燃料(高レベル放射性廃棄物)を集めて、そこからプルトニウムという極めて危険な放射性物質を取り出す作業のこと。そのために大気中と海中に、国内の原発が1年で放出する別の放射性物質を、毎日放出することになる。ただし、プルトニウムを燃料として使う原子炉(高速増殖炉)は今日本では動いていない。

参考サイト:『六ヶ所村ラプソディー』

http://www.rokkasho-rhapsody.com/_news/magazin

STOP ROKKASHO

http://stop-rokkasho.org/information/ja/03.html 
posted by 鶴見済 at 18:39| 人間界の経済

2007年10月23日

毎日のエコロジー=反<灰色>

kodomotomukasibanasi.bmpカネを使わず、モノを買わない生活を目指していたことがある。
全然大したことをしてたわけじゃないので偉そうに言えたものでもないが、例えばどんなことをしてたのか書いてみると……

●極力外食をせず、簡単な弁当を作っていく。●自分で作れる程度の野菜は作る。●買う肉は全部、魚の粗(あら)●電車に乗らないで済むところは、自転車や徒歩で行く(電車代は結構高い)。●CDや本や雑誌、ビデオやDVDも、図書館で借りて済ませる。●旅行に行くより地元をよく見る。●近所の人と物々交換する。●イベントや講演などは地域で無料でやっているものに行く。●細々とした生活用品は作る(例えば、タオル掛をそこらの木の棒と紐で作ったりする)。●生ゴミは肥料にする。●タダの自然物を見て楽しむ。●冷暖房は最小限に止める。等々。

実によくある「地球のためにあなたができること」集みたいだけれども、なぜかモノを買わないようにするとそういうことになっていくのだ。
あまり無理をしすぎると苦しくなり、長続きしないんだが、何事も今あるもので間に合わせる工夫をしたり、自分のいる地域や自然に目が向くようになってはきた。


小沢健二の『うさぎ!』の連載が始まったのは、そんなことを始めた頃だったかと思う。
この話に出てくる最大の悪者(と言っても人ではない)<灰色>は、「すべてのひとのするすべてのことを、急いで『大きなお金の塊』につなげてしまおうと」する。確かにこうしてあらためて見てみると、我々は自分でできることまでカネで人にやってもらったり、買わなくてもいいようなモノを買ったりしてしまっていた。
自分の子供の頃に比べても、<灰色>の「もう古いの計画」は着々と進行していて、我々は『うさぎ!』に書かれているように、まんまとイメージで心をあやつられて、次々と「買い捨て」をさせられていたのだった。


買うことに興味を失うと、いわゆる「最新商品の情報」(特に音楽の)にはすっかり疎くなったけれども、そんなことで騒いでいる世間を傍観者的に眺め、疑問を持てるようにもなった。
それらの商品は、どんな資源からどこでどうやって作られ、運ばれ、買われ、捨てられ、どこに行くのか? そういうネットワークは、今どこまで広がっているのか? こんな無駄なことをやっていたら、どこかにその「しわ寄せ」が行ってるんじゃないか?


確かに「しわ寄せ」はあった。自分たちがやっているこの「カネを払って済ませる生活」は、ある意味で世界で生じている「不平等」や「環境破壊」の上に成り立っていた。資源はもちろんどんどんなくなっていて、こんなことはまるっきり「持続可能」じゃなかったのだ。
一方で、いわゆる「豊かな国」に生きている我々だって、本当に豊かなのかというと決してそんなことはなく、「時はカネなり」と急かされたうえに格差まで拡大してきて、常にうかうかしていられないという生き苦しさなのだ。
特に「絵本の国」(日本のことだと思う)の不幸については、『うさぎ!』に詳しく書かれていて、身につまされる。


そもそも単純な事実として、我々ヒトは生物の一種であって、自然界の一部分にすぎない。人間の世界で「勝ち組」になろうが、ゴールドマン・サックスの社員になろうが、そういう「つながり」なり「全体性」なりを奪われているのなら、それだけでも十分に不幸なはずなのだ。
それはこの「<灰色>がつくり出す世界」の仕組みのなかにいる誰にでもあてはまることなんじゃないか?


『うさぎ!』で扱われている問題は人間社会全般に及んでいて、自分としても意見が異なる部分はある。が、本気でこの仕組みをなんとかしようと思っているであろう小沢健二に反対であるはずがない。


注:これは『毎月の環境学会々報』という同人誌の第4号に依頼されて書いた原稿を、多少直したもの。『うさぎ!』は『子どもと昔話』(小澤昔話研究所刊)という雑誌に連載されている童話形式の物語で、原稿はすでにこれを読んでいる読者を想定した書いた。
この雑誌は図書館の児童書コーナーに置いてあることもある。
ちなみに小沢健二の現時点での最新アルバムのタイトルは、『毎日の環境学 Ecology of Everyday Life』である。
posted by 鶴見済 at 15:59| 人間界の経済

2007年10月12日

人間関係だけが「関係」ではない

ningenkankei.jpg自然界とのつながりや他の生き物との関係を実感することは、精神衛生面から見てもいいと思う。「人間関係」というものを絶対的なものでなく、相対的に見ることができるからだ。

そもそも、”human relations”という言葉は20世紀に入ってアメリカでできた言葉で、それを直訳した「人間関係」という日本語も、第2次大戦後に広まったものだ。今では、親子、兄弟、結婚相手、隣近所に、学校、職場、さらにはインターネット等々での人間関係までが加わって我々を圧倒している。
我々は人類史上でも特に「人間関係」的な時代に生きていると言える。生きる苦しさのほとんどが、人間関係から来ているという人も多いのではないか?

しかも今のような都市に生きるヒトには、自然界との関係がわかりにくい。
食べものは自分で獲らなくてもにカネで買えるし、他の生き物に襲われる心配もなく、排泄物もどこへ行くのかわからない。水は蛇口をひねれば出るし、電灯やエアコンで明るさや温度の調節もできる。
けれども我々は相変わらず様々な他の生き物を食べることで生きているし、排泄物は菌類・微生物によって分解還元されて、自然界に還っている。植物とは呼吸と光合成を通しても、酸素と二酸化炭素をやり取りしている。水や塩といった無機物も日々体のなかを通過しているし、地球の外からやってくる太陽光とは関係しないでいることなどできない。

こうしてヒトを単なる生物種の一種と見なし、自然界との関係を見なおそうという主張は、地球環境保護のために盛んにされてきてはいる。
けれども、人間関係が苦手な人にとっても、こういう見方は有効だと思う。

確かに自分がヒトである以上、人間関係は数ある「関係」のなかでも一番重要だし、ある程度苦手でもやらざるを得ない。
それでも人間関係だけが「関係」のすべてではない。人間どうしの関係や他人の内面にばかり目が向いているのも、それはそれでよくないのだ。“コミュニケーション能力”なんてものが低かったとしても、対人恐怖症であっても、一巻の終わりというわけではない。
そう思えば少しは気も楽になるというものだ。
自分はそういう意味でも、広く「関係全般」に目を向けることを提唱している。

参考:加藤秀俊著 『人間関係─理解と誤解』(中公新書)

posted by 鶴見済 at 00:05| 自然界