「不適応者の居場所@秋の公園」の報告

10月の「不適応者の居場所@代々木公園」は、参加者30数人。そのうち初めての人が10人以上いた。話しを聞いてみると、やはりこれまでは、気づいていたけれども暑かったりなんなりで、抵抗があり来られなかったという人が結構いた。今日なら外でも気候もよさそうだと。こういう条件が、来られる来られないに大きく関わるのだなと勉強になる。 確かにこの日は、暑くも寒くもない、しばらくぶりの絶好の気候のなかでできた。単に天気がよく、いい場所にいるだけで、幸せな気分になるのだから、人の幸せとはわからないものだ。「〇〇がないからもう幸せになれない」というのも考えものだ。 そしてひどい家庭の話にもなった。こういう話は滅多にするものではないし、本人が言いたいかどうかもわからないのだけれども、ないわけがないのであって、できる場所があるのは大事だ。例えばいじめ被害の体験は多くの人にあるはずだが、話せる場なんかあるだろうか? また普通の場所で、話したいと思うか? ひどい家庭の話もそれに近いものがある。もっとも色々な話をしているので、そうした話の場でもないわけだが(それは特別な支援の場や自助グループになるだろう)。 次回はまた公園になるかもしれないが、紅葉を見てみたいものの、気温が心配。

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暴力に支配されている家庭はかなりあるはずだ

Twitterに家庭のなかの「暴力による支配」の問題を「昭和の頃までの話」として書いていたら、農水次官が息子殺しを正当防衛と主張したというニュースが出た。「殺すか殺されるか」だなんて地獄だなと思うが、そういうことが起こり得ることもわかる(事実関係はよくわからないものの)。こうした事件が現に起きているので、昔のこととして語るのもよくない。そしてこういう話はどこまで開示するべきか悩むが(引かれるのも嫌だし)、現在進行形の問題である以上、語ることに意義はあるだろう。 少なくとも昭和の頃までは、親が子供を厳しくしつけるのはむしろいいことで、父親は威張っている「べき」ものだった。子供に対して怒鳴る、叩く、をしない親がいただろうか。つまりこの頃までの親は、今で言う「毒親」が普通だったと言っていい。 そして親が暴力を後ろだてにして家庭を支配をしているのだから、他のメンバー間で暴力を行使してはいけない理由がない。兄・姉が弟・妹を、同じように暴力で従わせることは珍しくなかったはずだ。当時は2人以上の兄弟が普通だった。こちらのほうが大人が関わらない分、より危険だ。 例えば子供の頃、向かいの家に男の兄弟が住んでいた。よく彼らと遊んでいたので、兄が3歳下の弟にあれこれ命令したり、怒鳴ったりしているのはわかった。そして弟さんは母親が外出して兄と家に二人だけになりそうになると、何をされるかわからないので、用もないのに母親に付いて回っていたそうだ。親がいない状態が極めて危険なのはよくわかる。ただ、暴力による力関係は逆…

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10月の「不適応者の居場所」はまた代々木公園

つながりをなくしがちな人がつながるための「不適応者の居場所」、10月はまた代々木公園でやります。善福寺公園など他の公園も考えてはみたものの、やはり大変なので。 日時:10月24日(土)13時~17時場所:代々木公園噴水池そば(渋谷門から向かって右の池の向こう側。いつもの木の下、図の赤丸印)飲食:飲み物と食べ物は基本は各自持参ですが、食べ物は多少はあります。カンパで。その他は無料。シートは大きいのをこちらで用意します。注意:ハラスメントはなしで。支援活動ではないので、参加する人の互いを思いやる気持ちがないと成り立ちません。   途中から参加、途中帰りももちろんOK。話さなくても可。最近は初めての人は4分の1くらい。対象:ひきこもりがち、フリーランス、労働週4以下、心の病、社内ぼっちなど、様々な理由でつながりをなくしがちな人。 9月初めから、このまま下がりきるかと思われた日々の感染者がずっと横ばいで、外出自粛期間ほどではないものの、もやもやした気持ちがいつも頭から離れない。これいつまで続くんだろう。ずっとこのままであってもおかしくないし、その場合はこのままライブや祭りなどはできなくなるのかと気が滅入る。ただでさえ精神が調子悪いのに、この状況ではつらつとするわけがない感じ。せめて駄弁ることで発散して、これ以上の滅入りを防ぎましょう。 ※久々に0円ショップ(使わない物の無料放出コーナー)を作ります。放出したい人はぜひ。ただし残ったら持ち帰りで。自分も出したい物がたまってしまった。 趣旨 これま…

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花は互いに恩恵を与えあう関係のシンボル

コロナ自粛期間がちょうど春だったこともあって、花を飾ったり花の写真をSNSにアップしたりするのが流行ったのはなかなかよかった。自分も花を摘んでは飾っていた。 食べられる植物を育てる前は、90年代終わり頃からずっと主に花を栽培していた。その頃は花が好きだとよく言っていた(今はその頃より、男が花のよさを語りやすくなったのもいい)。そのうち花に限らず、食虫植物など、面白い植物全般に対象が広がっていったのだが、それでも中心は花だった。ありとあらゆる花を栽培した。鉢は常に10以上はあったはずだ。始めたきっかけは、近所の林に咲いていたムラサキノハナナ(通称ダイコンの花)を根ごと持って帰って鉢に植えたら、それだけでもかなりいけるとわかったからだった。それ以降は、花を摘んで花瓶に活けるのもずっとやっている。花を見ながら、なぜ花がこんなにいいのかよく考えた。そもそも、花は何のためにあるのか? もちろん虫をおびき寄せて、受粉を成功させるためだ。甘い蜜も、心地よい匂いも虫への贈り物だ。花は虫に受粉の手伝いをしてもらうために、ここまで手の込んだもてなしをしている。 我々の目に見える範囲にも、花(顕花植物=種子植物)と昆虫はたくさん存在している。 「進化史上最もめざましい成功をおさめた種間関係は、昆虫と『顕花植物』の共進化である」。(真木悠介『自我の起源』) ということなのだ。 互いに恩恵を与えあう「共進化」は、生物が最も得をする関係性だ。花とミツバチの関係では、どちらが得をしているのかよくわからない。寄生のよう…

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不適応者の居場所、久々の公園ピクニック報告

9月の不適応者の居場所は、久しぶりに散策ではなく座って話すスタイルにした。こういう形にすると人も増えて、全体で27人?、初めての人は6人?くらいだった2度目の人も同じくらいいたと思う。巨大シートを何枚も持っていって、距離は十分に取れた。散策には散策のよさがあり、同じく駄弁り会のよさもあるというところだ。 本でも音楽でも観察でも何でもいいのだが、大好きなものの話をするというのは、その人の自己紹介の意味合いも兼ね備えた、特にいい話題だなと感じる。話が合わないかもしれないデメリットはあるのだが。誰かとある程度親しくなるには、「自己開示」という要素がないと難しいが、大好きなものの話はその要素をはじめから持っている。(例えば何かについての評論のような話は、自己開示の要素は少ないと言える)。 結局真っ暗になるまで話して、その頃にはあたり一面に秋の虫の声が響きわたっていた。暗くなった途端に大きくなる虫の声に注目していたので、味わえてよかった。こういうのは、ずっと外に座っていないとわからない。 写真はその場所から見えた噴水。

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教室やオフィスに通う生き方の問題

教室やオフィスのような、人が密集しているひとつの箱のなかに一日中居ること。工場のような環境もそれに近い。そしてそこに毎日通うこと。これが人間の当たり前の生き方だと思っている人は多いだろう。そのこと自体を問題として考えたいのだ。自分も人生の初めの30年は疑いもなくそれをやっていた。その後思い切ってやめて以来、まったくその環境には縁がない。この変化は、自分の人生を振り返っても特に大きなものだった。そして今は、もしあれを続けていたらどうなっていたかわからないと、胸をなでおろすような気分だ。 あれほど人の視線が張り巡らされている空間に、あんなに長時間座っていることなど、今からでは想像もできない。否が応でも他人のことを強く意識してしまうし、意識される。意識し合えばもめごとも起きる。生きた心地がしないではないか。 ああした場所に通わない生き方など、何かとんでもなくひどいことになるのではないかと誰もが思うだろう。自分も初めはそう思った。けれども、そんなことはないと言っておきたい。(もちろん収入もつながりも、この社会は保障してくれないのだが)。 教室やオフィスや工場のような環境にずっと居ること、そしてそこに毎日通うことが当たり前になったのは、人間の歴史のなかでもヨーロッパで18世紀に産業革命が起きて工場ができ、続いて学校ができてからの、ここ200年くらいのことだ。人間の体や脳は、そんな環境に合わせて作られているわけではない。誰もができて当たり前のことではないのだ。だから意識過剰になったり、視線恐怖になったり…

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9月の「不適応者の居場所」は」代々木公園でどうか

つながりをなくしがちな人がつながるための「不適応者の居場所」は、代々木公園でのピクニックでどうでしょうか。すっかり涼しくなったし、日が暮れて虫が一斉に鳴きだすのを聞いてみたい。そして散策の企画は、考えるのが大変でもあるので。日時:9月2627日(土日)13時~17時?    延期になりました。 場所:代々木公園噴水池のそば、渋谷門から向かって右の池の向こう側。いつもの木の下、図の赤丸印) 持ち物:シートは大きいのを用意します。飲み物、食べ物は基本的に各自持参ですが、食べ物はある程度あります(できる人はカンパで)。アルコール可。 注意:支援活動ではないので、お互い様の精神で相手の気持ちを思いやることは欠かせません。ハラスメントはやめてください。   途中から参加、途中抜け、途中帰りなどすべて可。途中で公園の散歩に行くのもいいと思う。   話したくない人は話さなくても可。 対象:ひきこもりがち、フリーランス、労働週4以下、心の病、社内ぼっちなど、様々な理由でつながりをなくしがちな人。とは言え、基準は曖昧。どうぞよろしく。

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「人はみんな死ぬ」と思っただけでもホッとする

転んだことが直接の原因になって死んでしまう人は、国内で年間1万人もいる(間接的な死因となる人はもっと多い)。風呂に入ったことが原因(溺死・温度差など)で死ぬ人は年間1万9千人。そして去年1月の窒息死亡者は1300人。これらの原因は主に餅を喉に詰まらせたことではないかと推測される。(季節性インフルエンザで死んだ人は、18年は3325人)。これらは、最近自分で勝手に調べて分かったことだ。毎日今日のコロナの死者は10人、今日は15人、今日は13人、減る気配がありませんなどとやられると、絶望的な気分になってくるが、こういう数字を見ると気が楽になる。以前に本に書いたことだが、今地球上に生きている人が100年後にはほぼ全員死んでいると思ってまわりを見回してみるのも好きだ。 人は死ぬのだと思っただけでホッとするし、死んではならないなどと思うと肩に重い荷が載ったような気分になる。 前から思っていることなのだが、人が死ぬことをすべて、あってはならない痛恨の過ちのように見なして、死から目を背けていると、何かを見誤ってしまう。人が生きて死ぬというごく当たり前のプロセス全体を、普通に見ることができなくなってしまう。それは我々が生きるうえで、大きな考えの歪みをもたらしているはずだし、精神的な重荷にもなっているはずだ。(人が死ぬことを「殺された」と見なして、何かのせいにしようとする作戦のようなものも使われすぎていると思う)。 重荷になる言葉の最たるものが「生きることは素晴らしい」だ。自分は「生きていさえすればそれだけで…

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個人を不幸にするのは別の個人による加害である

人生の不幸を減らすために一番重要だと思っていることがある。 1~2年以上といった長期にわたって、自分のことを狙い撃ちして攻撃してくる人間がいるだろう。家族、同じ学校、同じ職場、同じ地域にいることが多いが、ストーカーやネット上の加害者に出くわすこともあるだろう。そういう人間は、一生のうちに10人も現れないだろうが、5人以上は出るかもしれない(はっきりと姓名を憶えているはずだ)。人の不幸の最大の原因になるのは、そういう人間であり、そこから来る攻撃(暴力や嫌がらせ)なのだ。そしてそういう人間が現れた時に、なるべく早く有効な対処をすることが何よりも大事だ。そう思っている。 人の不幸の原因として、政治や社会制度のことばかり語られるけれども、この日本の場合それでいいのかと疑問に思う。もちろん国政を変えねばどうにもならない問題はあるのだから、そちらも大事だ。けれども、別格と言える不幸を招くのは身近な人間からの執拗な攻撃ではないか。経験からはそうとしか思えない。個人を不幸にするのはまずは、「鈴木」とか「田中」といった具体的な名前を持っている別の個人だ。 身も蓋もない話だ。けれども世の中は、唱えられている社会論のとおりではない。本気で自分の苦しみを減らしたいと願う人には、社会論など勉強するよりもまず、とにかく身近な人間から来る加害に目を向けてほしいと思う。そして加害者からはもちろんのこと、そういう加害が容認されている世界からも、迷わずに離れる(近づかない)ことだ(もちろん、そうできない場合もあるし、反撃し…

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猛暑のなかの居場所@石神井公園の報告

石神井公園での居場所は猛暑のなかになってしまった。電車に乗って公園までの道のりは、直射日光を散々浴びたので、こりゃ数人しか来ないかな、と思えた。けれども参加者は16人。もちろん暑いのだが、石神井公園は木陰ばかりなので、そこそこ涼しく過ごせる。そこらじゅうに木陰がある環境だったなら、猛暑でもこんなに困らないことがわかる。 夏だけあって、池のまわりは様々な昆虫で一杯で、耳に聞こえるのは大音量のセミの声だ。虫に詳しい人が、トンボや蝶の名前を、ぱっと見ただけで次々と言い当てて、「なわばりから追い払っている」などと生態を教えてくれる。(人間以外の生き物を意識するのは、人間関係を絶対化しないためにとてもいいので、こういう集まりにはよく合うと思っている)。そんなふうに池のまわりを歩きつつ2回ほど休憩して飲食をした。日が暮れるとすぐに、セミの声がスズムシの声に変わった。そして突然涼しくなる。これもさっきまでの暑さがあってこそだ。『枕草子』によると「夏は夜」だと誰かが言う。真夏にやる外の居場所もいいものだと思えた。そのまま暗いなかで飲みながら駄弁っていた。 これまでは夏は暑くて、外で居場所などできるわけがないと思っていた。けれどもやってみれば、割と問題なくできるし、夏ならではのよさがたくさんある。暑いなかでやったことさえ、他の季節よりもハッキリした思い出になるのではないか。 最近こんなことばかり言っているが、「できないと思っていたことができる」のはものすごい快感だ。「やった!」というあの爽快感に匹敵するも…

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