2019年08月17日

8月「不適応者の居場所」の報告

8月の居場所は、お盆休みだったせいか(その割には仕事が休みではなかった人も多かったが)、再び人数が増えて、20時頃はほぼ上限だった。
女性が半分くらいでこれまでで一番多かった。また仙台から、ひきこもりがちの19歳がはるばるやってきてくれたのは嬉しかった。

地域のつながり作りについての話は面白かった。
こうして集まっていても、地域の居場所やつながり作りには、皆あまり行かないようだった。行政がやっているようなコミュニティカフェや公民館の趣味サークルなどにも。自分もあまり行く気がしない。
そういうところの主役は高齢者と母親層なのだろうが、価値観が合わない気がする。
ひきこもっている間は、近隣の目に触れないように、昼間に外出しなかったと言う人もいた。そうなると、地域はつながる場どころか、むしろ避けるべきものであり、集まりになど行けるわけがない。行くなら、少し離れた街の集まりがいい、という話はよくわかる。
地域の〜というのは、実に微妙なものなのだ。

その他、一日店長ではなかなか食べていけないという話や、ユーチューバ―やブロガーなんかは何が原因で「ハネる」のか、なんていう話もとてもためになった。こういうやり方で食べていけるようになったら、本当に理想的なのだが。

それと、何かのきっかけでちょっと学校から離脱する人くらい出ても全然おかしくないのに、そのちょっとがこれほどの重大事に至る仕組みになっているのか、変えられないのか、とても疑問に思う。

ちなみに会場も、もう少し広くて、土曜も取れる場所を引き続き探しています。知っている人、提供してくれる人がいたら、連絡してください。花見のように座って酒が飲めて、安いことなどが条件です。

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2019年08月14日

不審者通報を「する側」と「される側」の違いって何なの?

川崎での殺傷事件があった頃Twitterで、「公園のベンチに座っていただけのおじさんが、ママ友集団に不審者通報された」という事件が批判的に広まったことがある。


驚いたのは、それに対して「悪くない、どんどん不審者通報をしよう」というツイートもまた、拡散されたことだ。興味深いのでそうしたツイートも色々漁って読んでしまった。
ネット右翼など、特定の考えの人たちが言っているわけではなく、多くは「子供を守るため」「犯罪をなくすため」という正義感を持った人たちのようだった。

自分が疑問を持ったのは、そうした発言のすべてに、通報される側にいる人々のことが、まったく頭にないことだった。そして不審かどうかの判断を、通報する人間が完全に恣意的に行えることへの疑問もない。

不思議な気持ちになった。
同じ地域に住んでいる人間のなかで、なぜ一方には自らを「通報する側」という特別に有利な立場と自認している集団がいて、もう一方には「通報される側」という不利な立場に置かれる人間が生じるのか。もちろん自分は後者に入るし、「平日昼に地域をウロウロしている高齢者でない男」は、皆そうなりうる。一人でいる、子供を連れていない、など他にも色々あるだろう。逆に、「子供を連れたママ友集団」は絶対に通報されないと断言できる。

地域における「生きやすさ」は、すでにそのくらい違っているのだ。近隣の目を怖がることから、ひきこもりをこじらせる人も多いだろう。野宿者はさらに厳しい。

「不審者通報をする側」と「される側」。
この両者の違いというのは、一言で言うと何なのか。ある程度自分のなかには答があるのだが、少なくともこういう生きづらさについて、遠慮して言わずにいることなんてないですよ、と言いたい。

(別に、子供がいる母親層との対立をあおっているわけではないので、それも念のために。通報するような人ばかりではない)。
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2019年08月02日

真夏の「不適応者の居場所」

暑いですね。暑い時は水風呂が最も効果的だと思いますが、それにしても暑さ対策にばかり目が行って、人とのつながりはいつにもまして減ってしまうのではないでしょうか。

そんなつながりをなくしがちな人の集まり「不適応者の居場所」、8月はお盆休みの16日(金)にやります。
ひきこもりがち、フリーランス、労働週4以下、メンヘラ、社内ぼっちなど、様々な理由でつながりをなくしがちな人が、単に駄弁ることでつながりを回復しようという趣旨。ただし、参加資格など厳密なものはないので、気軽にどうぞ。


日時:8月16日(金) 18時〜5時間?
場所:高円寺 素人の乱12号店
費用:会場代、食べ物代(ビーガンの料理とスイーツ)、酒・ソフトドリンク代の2万5千〜3万円をカンパで賄いたいです。
注意:ハラスメントはやめてください。勧誘目的の参加も。人づきあいが苦手な人が多い場です。

※会場内に0円ショップコーナーを作ります。放出品がある方は何でも出してみてください(ただし残ったら、本人が持ち帰り)。
※途中から参加、途中退出はもちろんOK。座る場所をあちこち変えるのも、こういう会では普通です。
※ほとんどの方がひとりで来られます。初めての方も、毎回三分の一ほどいます。

人間関係は、そのために個人が奉仕するのではなくて、個人が自分が楽になるために利用するものであるべきです。個人が楽になるために、各自が好きな分だけ人間関係を利用すりゃいいと思います。


posted by 鶴見済 at 09:47| Comment(0) | 不適応者の居場所 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月20日

初夏の「不適応者の居場所」の報告

7月の不適応者の居場所、初めて来られた方や、会社勤めの方が多かった印象。以前のように超満員ではなく、ほどよい混み具合だった
一日店長をやられている方や、一日店長のバーに行っている方、あるいは居酒屋を交流の場にされている方など、色々なつながり作りがあることを知る。
自分も最近、偶然見つけたあるパンク・バーに入って盛り上がった話などしたが、やはりそういう場に行くのには敷居の高さを感じる方もいる。この居場所は人付き合いの苦手な人が多いのだから、敷居を低くしたいものだ。


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もちろん人間関係や生きづらさの話など、どんな話題も出るのだけど、この日は趣味の話もよく出た。
音楽や好きな音、マンガ、本、映画、アニメ、ゲーム、スポーツ、Twitterでよく見ている人、街歩き、海外、野鳥、自然、等々等々。そんな話がよく飛び交う。

ある人から「私は〇〇が大好きなんですよ」と聞いた時が、一番その人がわかった気がするし、続いて「えっ! 俺もそれ大好きなんですよ」となった時の、一気に距離が近づく感じは何なのだろうといつも思う。もちろん自分が趣味に入れ込んだ人間だから、そう思うだけかもしれないが。

もちろん、話がさっぱりわからない人がいるかもしれないので、十分気をつけなければならない。自戒を込めて。
けれども、通常「社会議論」などに比べて「他愛もない」と低くみられがちな「趣味の話」、価値がないなんてとんでもない。楽しむことが人生の最終目標なのだから、まったく侮れない。
(趣味がない人も楽しめる集まりです。念のため)


※おまけ
今回の居場所で薦めたドストエフスキー『地下室の手記』から。
「あまりにも意識しすぎるのは病気である。正真正銘の完全な病気である。人間、日常の生活のためには、世人一般のありふれた意識だけでも、十分すぎるくらいなのだ。」
「単に意識の過剰ばかりでなく、およそいっさいの意識は病気なのである。」
「絶望のなかにこそじんと灼けつくようなような快楽がひそんでいることだって多いのだ。」

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2019年07月17日

川崎殺傷事件報道があおる「自殺したい人」への偏見

「自殺をする人は他人を殺しかねない」。
川崎の殺傷事件を「拡大自殺」などという自殺の一形態と見なす報道によって、こういうイメージがまき散らされた。
拡大自殺とは、自殺したい人が他の誰かや社会に恨みを持っている場合、まずその相手や見知らぬ人を殺してから自殺することを言うらしい。

その拡大自殺の提唱者である片田珠美氏が、その説の元にしているのが、「自殺とは他人を殺したい願望が自分に向かった形である」という「自殺と他殺は表裏一体」説なのだ。その説は彼女の著書『拡大自殺』のなかでも説かれている。
こういうおかしな仮説は「死にたい人」に対して、人殺しをしかねないという偏見を生んできた。

こういうことは、傾向としてあると言えるのだろうか? 
実際に、数え切れないほどの自殺者の事例に当たり、まわりの死にたかった/死にたい人の話を聞き、何よりも自分が死にたいと思っていた時の経験から言うと、自殺したい人が他人を殺して恨みを晴らしてから死のうとするケースは滅多に見られないと言うほうが正しい。

自殺しようとする人も、「どうせ死ぬのだから何でもできる」などと思っているわけではない。もちろん例外はあるものの、死体の見栄えや迷惑をはじめ、自分の死後のイメージを強く意識するものだ。そもそも、自分の今の苦しみと死と格闘することで精いっぱいで、その前に復讐のために人を殺すという一大事を持ってくるエネルギーなどない場合が多い。

もし日本の自殺者のわずか1%にでも、こうした復讐の殺人を犯す傾向があるとしたら、毎年200〜300件の「復讐の殺人→自殺」事件が起きることになる。

無理心中は本来は、ここに含めることはできない。心中というのはあくまでも一緒に死ぬということで、恨みからの殺人では決してない。残された家族などを思いやってすることだ。障害を持った子供と親が心中するケースが多いとも言われる。自殺は殺意が反転したものなどという仮説では、まるで説明できないものだ。
けれども、その無理心中を含めたとしても、こんな数字にはならない。
無差別殺人後の自殺ともなると、戦後は川崎殺傷事件の一件だけなのではないか? 

「自殺は他人への殺意が自分に向いたものである」とは、もともと精神分析学のフロイトが提唱したものだ。実証的な根拠はない。それが戦後の日本でも受け継がれ、そのような言い方は、少なくなりながらも今も残っているというわけだ。似たような言い方に「自殺と他殺は表裏一体」という言い方もあり、片田氏も使っている。
『完全自殺マニュアル』に対しても、「これは世界を破壊したいという願望が反転した形」などというろくでもない評がいくつも出た。

自殺をするのは、苦しみが生きていくうえで耐えられないほどに高まったからであって、決して殺意が反転したからではない(そもそも反転って何なんだ。反転なんてするのか?)。日本の自殺の原因のトップは「健康問題」なのだ。他人への悪口や暴力のほうが、自殺よりもはるかに他殺に近いものなのではないか。

本来、川崎の殺傷事件のような稀なケースを、無理やり「自殺の一形態」と位置づける必要はない。けれどもこのフロイトの仮説を継承している学者にとっては、今では支持されなくなったその説を堂々と主張できる、絶好のチャンスなのだ。

川崎の殺傷事件のおかげで、自分が自殺をめぐる言説について不快に思ってきたことの原因が見えてきた。
自殺したい人は、苦しい目にあったけれども、自分が消えることで解決したいという、本来極めて控えめな、非難などされようもない存在であるはずだ。
「自殺は殺人願望が自分に向いただけのもの」などと言えば、殺人犯・凶悪犯と同類となってしまう。「ひきこもりを無差別殺人と結び付けるな」と言われたけれども、「自殺」にも同じことが言える。そんなケースは稀なのだから。

いや、まだまだ言い足りないのだが、それは追い追い書いていこう。
もっと楽にやらないと、全然書かなくなってしまう。



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2019年07月06日

7月の「不適応者の居場所」は19日

日頃つながりをなくしがちな人が駄弁ってつながる会「不適応者の居場所」、7月は19日(金)です。
ひきこもりがち、フリーランス、労働週4以下、メンヘラ、社内ぼっちなど、様々な理由でつながりをなくしている人が対象ですが、そんなに厳密な参加条件はありません。

トークや上映などがなくても、駄弁ってつながることはそれ自体で、十分会を開く目的になる。それどころか、こうやって会話して楽しむことは、生きることの目的にもなり得る
生活の保障、収入、医療、安全といったことは、生きていくうえで欠かせない大事なものだけれども、あくまでも手段や必要条件。
ではそれらは何のために?と考えると、人によるけれども、意外とこうして人と駄弁って感心しあったり、自然を見たり音楽を聴いていいなと思ったり、好きなものを食べてああうまいと思ったりといった、意外にすごくシンプルなことだったりするのではないか。
そう思ってます。

日時:7月19日(金)18時〜5時間くらい?
場所:高円寺・素人の乱12号店
料金:会場代、食べ物(ビーガンのケータリング)代、酒・ソフトドリンク代の2万5000〜3万円をカンパで賄ってます。
注意:ハラスメントや勧誘はやめてください。行政からお金が出ているような支援活動ではなく、相互扶助・シェアの会なので、スタッフのような誰かの面倒をみる係の人はいません。お互いに相手を思いやる気持ちがないと成り立ちません。

※毎回会場内に0円ショップを作っています。物が欲しい人や放出したい人は利用してください(出した物が残ったら本人が持ち帰りです)。
※途中から参加、途中帰りもOKで、帰る時に挨拶もいらないです。座る場所を変えるのは、こうした会では普通。初参加の方も毎回多いです。
気軽に来てください。

posted by 鶴見済 at 12:34| Comment(0) | 不適応者の居場所 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月16日

「不適応者の居場所」6月の報告

DSC_2096 ぼかし.JPG6月は告知を控えめにしたせいか、雨が降ったせいか、常時20〜30人くらいだった。スペースにもゆとりがあって、本来はこのくらいがこの会場には適正な人数なのだろう。

野外のライブ会場の音漏れを聴く集まりを呼びかけた話を聞くと、色々な集まり方があるのだなと感心する。この会から刺激を受けて、自身で集まりを始めたと話していた方もいた。またこの日、居場所の参加者がすぐ近くの駅前で同時進行で0円ショップもやっていた。広がってくれていて嬉しい。

精神的にいいという理由で自然にはまる人も結構いることに気づく。川べりに座って、水面を見たり音を聞いたりするのが落ち着くという話には共感した。
趣味の話というか、その人が好きなものの話は、何であれ面白い。



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2019年06月03日

6月の「不適応者の居場所」

6月の「不適応者の居場所」、また屋内でやります。
川崎の殺傷事件、そして元農水次官の殺人事件によって、社会不適応者受難の季節が始まっています(褒められることがないので、受難か何もないかのどちらかしかない)。「死にたい者は無差別殺人をしかねない」といった論調もまかり通っていて、うんざりさせられます。
ただ、こんな不適応者の危険視は、かねてから激しく行われており、今は多少マシになったほうです。
気楽に外出していきましょう。

日時:15日(土)、17:00〜5、6時間?
場所:高円寺・素人の乱12号店
料金:場所+食べ物(ビーガンのケータリング)+酒・ソフトドリンク代の2万5千〜3万円をカンパで賄いたい。
注意:相互扶助の集まりなので、ハラスメントや勧誘はやめてください。
※ 0円ショップのコーナーも作ります。使わない物がある方はご利用ください(残った場合は持ち帰りです)。

ひきこもりがち、フリーランス、労働週4以下、メンヘラ、社内ぼっちなど、様々な理由でつながりをなくしがちな人が、集まって飲み食いしながら駄弁る会です。
会話を気持ちの切り替えやストレスの発散に役立てましょう。楽になるために。

今回もまた土曜日が取れたので、人数が多くなることも見込んで、早めに始めます。早めの時間は空き気味だと思いますが、どうなるかわかりません。終わりのほうはおそらく空いています。
万一入りきれなくなった場合は、少したってから再度来ていただくことになるかもしれません。
途中から参加も、途中帰りもOK。帰る際は黙って帰ってもらっても大丈夫。
ほとんどの方がお一人での参加で、毎回、初めての方は多いです。

もっと広めの場所はいつでも探しています。貸してもいいよという方がいらしたら、床に座れるなど条件が色々あるのですが、お声を。

posted by 鶴見済 at 12:27| Comment(0) | 不適応者の居場所 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月28日

エジプトの駄弁り文化はすさまじい

DSC_19562.JPGエジプトに少し長めの旅行に行ってきた。
自分は旅行中、そこに住んでいる人の暮らしに触れるのが好きなので、地域の屋台や小さな飲食店にばかり行っている。地元の人が乗りこなす小さなバスにもよく乗る(料金は15円くらい)。自転車や徒歩で、住宅地みたいなところを見て回るのも好きだ。

今回そんなふうに見ていて驚いたのが、都会でも地方でも盛んな駄弁り文化・カフェ文化だ。
カフェは夕方から夜にかけて、駄弁る人々で一杯になる。カイロのカフェが集中している地帯では、ざわざわと話声が響いている。地方ではサッカーの中継を大画面で見る人も多い。街頭テレビといったところか。
平日昼でも、水タバコを吸いながらのんびり話していたり、独特のボードゲームをしていたり。
カフェに限らず、街頭や公園のそこかしこに腰かけて、あるいは連れ立って歩きながら、延々と会話をしている。
大通りでない路地にも、子供も大人も人が溢れていて、彼らがまた立ち話をしている。

インドネシアをはじめ東南アジアでもよく感じたのだが、平日でも人々が夜に連れ立って外に出て、延々駄弁るという文化がある。学校や職場しか行くところがないような社会とはまるで違う。
エジプトは物質的には豊かな国とは言えない。失業率も高い。そんな場所で何か楽しめることと言えば、やはり会話ということになるだろう。何しろ無料だし、昔から親しまれてきた娯楽だ。
もしこの会話を毎日数時間でも心から楽しんでいるなら、他に何もいらないかもな、と思える。

もちろん、旅行者にはわからない仲間外れ、いじめ、敵対はあるに決まっている。第三世界はおおむね日本より荒っぽさを感じるので、こうしたものも日本より多い気がする。イスラム教が強いので、個人の自由という概念が強いとも思えない。と言うよりイスラム教圏は、日本も含め自分が行ったことがある地域のなかでも、同調圧力はMAXであると感じる。
それでも、駄弁る大勢の人々のなか路上に座っていると、浮いているくせに「ああいい感じだ」とどうしようもなく思ってしまう。
こうしたカルチャーのいい部分だけ、日本にも取り戻したい。あくまでも、いい部分だけ。
(※)写真は大都会カイロのものだが、地方のカフェでは女性は見たことがなかった。

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2019年05月19日

「不適応者の居場所@公園」の報告

5月の不適応者の居場所は、代々木公園で昼の時間にやった。
昼頃に場所を取りに行くと、天気がいいので花見でもないのにたくさんの人がピクニックしていて、なんとなく嬉しくなる。一人でシートを広げて座ると、池の噴水が見えて、風が吹いて来た。これだけでもう成功だよなあ、などと思った。
いつもより2時間も長くやってしまったのだが、いるだけでも気持ちがいいので、それほど疲れは感じなかった。

今回は自分で集まりを開いていた人、始めた人に多く会えた。バーの一日店長としてのつながり作りや、公園でごろ寝する集まりを始めた人、つながり作りとして0円ショップを始める人もいた。複数のシェアハウスでゲームなどをやる集まりを開いていた人とも話せたし、人が集まれるスペースをやっていた人は、今度路上鍋会をやるそうだ。
色々なやり方があって勉強になる。

よく言うことだが、「社会に適応できない(しない)人=何もできない人」、などということはない。人がやる無数のことのなかの、テキパキと動く、ハキハキ答える、職場集団に溶け込む、じっと動かず続ける、といったことが苦手というだけだ。けれども、こうした仕事でしか金を稼ぐ手立てがないこの社会では、それをもって社会不適応者と見なされる。
こうしたことは、200年前だったら誰もできなかっただろうし、今でも全員ができるはずのないことだ。

もちろん、何かの集まりを主宰することも、人がやる無数のことのごく一部であって、それができるできないで何かが大きく違うわけでもないが。
何かをしている人は偉くて、何もしていない人は偉くない、という空気が生まれるのは避けたい。そういう世界も知っているが、特に何もしていなかった自分は、とても居心地が悪かったので。
人が幸せであるためには、必ずしも何事かをなす必要はない。

次回は6月半ばの予定。雨が多いので外は無理。

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