映画『英国王のスピーチ』に見る対人不安の解決法

『英国王のスピーチ』というアカデミー賞作品賞まで取った映画が、社交不安障害や吃音症をテーマにした実話で、とても考えさせられる。ちょっとネタバレしてしまうので、見ると決めている人はここから先は、見た後で読んだ方がいい。 【ネタバレ】スピーチの場だけでなく、日常的に対人場面で緊張してしまって、言葉が出なくなったり、どもってしまったりする英国王子(後に国王)が、それを克服しようと悪戦苦闘する映画だ。そして、”I have a voice!”という自分が発した言葉を転機に変わる。その日本語訳がおそらく訳者の意図を超えて、偶然核心を付いているのだ。「私には伝えるべきことがある!」。これが字幕に出る訳である。”I have a voice!”は直訳すれば、「私には話す権限がある」だが、訳はこうなっている。このことが、偶然なのかもしかしたら意図的なのか、吃音症の治療の主眼としてよく語られることなのだ。声が震えるかどうか、つかえてしまうのではないかということよりも、相手に何かを伝えるために話すのであって、そこがすべてだと思ってしまってはかえってうまくいかなくなる。英国王のスピーチと吃音臨床について書かれた、吃音専門のブログ【ネタバレここまで】 吃音に限った話ではなく、日常におけることすべてにおいてこれは言える。例えば、動きがぎこちなくなってしまうとか、どぎまぎしているのを見破られて変に思われるのではないかとか、対人場面に限らず、何か取り返しのつかない事態に至ってしまうのではないかとか。こんな不安は、大なり小な…

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9月の「不適応者の居場所」報告

9月の居場所は、夏休み明けということで、世の中のキャンペーンに倣って「小中高生大歓迎」と告知していたところ、高校1年生がひとり来てくれた。10代の参加は3人だったのだが、高1生にはまわりが大人ばかりで、つまらない思いをさせてしまったかもしれない。 あれこれと彼との共通の話題を探っていて思ったのは、こうするのは、何かの情報を知りたいというよりも、会話することで仲良くなりたいのだなということ。会話にはそういう側面がある。というより、そっちの側面のほうが強いのかもしれない。もちろん会話の苦痛のほうがメリットを上回る場合は、しなくてもいいのだし、あまりしない人はこの居場所にもいる。 また、ある「オザケン」好きな人と話が合って、「オザケンの話を今まで人としたことなかった」と喜んでくれた時、とてもグッと来る。こういう感覚は、あまり大したこととして語られることはないが、こういうことに出くわすたびに、いや、大したことだと思う。強く思ったことは、ある程度人と話し合いたいことなのだ。 イベントバーでの一日店長の体験談や、シェアハウスでうまく行かなかった話、幻聴と共存しながら暮らされている方の話など、その内容が大いに勉強になったものもある。 それから今回も、仙台、大阪、長野など遠方から来てもらえるたのも、とても嬉しい。今回も入れ代わりも含めて30~40人くらいで人数的には上限。次回は珍しく公園でもできる月なので、代々木公園を検討中だ。もう少し広くて適した場所を、引き続き探している。

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80年代のネクラ嘲笑文化、陰口文化

80年代に大人気だったビートたけしのオールナイトニッポンは、メインがきよしや軍団をはじめ身近な人間の嘲笑や陰口だった。大島渚や村田英雄など、有名人をしつこくバカにすることも多かった。それに大なり小なり影響されて、教室でも口調まで真似して、他人の観察と嘲笑に明け暮れていた。誰があの時変なことを言った、誰は笑っちゃうなどとたけし気取りでしきりに言っている本人自身も、それによってますます危険になるのだから、実にご苦労なことだった。こういうのは、高校にも大学にも、そして職場にもいた。 たけしほどではないものの、80年代に人気のあったタモリのオールナイトニッポンでも、ネクラ嘲笑を芸としていて、極めてよくなかった。よしとされたのはネアカな性格である。考えとか思いやりとか、そんなことよりも、とりあえず人当たりが明るいか暗いかで、その人の集団内での評価が決まってしまった。ネクラ嘲笑/ネアカ賛美は、もともとタモリが言い出したなんてことは気づかれないほど、広く社会全般に広まった。今は「陰キャ」という言葉がある。それもあまりよくないと思うのだが、クラスなどの集団のなかのポジションを指す言葉なので(「俺は中学では陰キャだった」など)、嘲笑の言葉である「ネクラ」とはちょっと違うように思う。 滅多に振り返られることもないが、こういうものは、個人の生きやすい/生きづらいを決定的に左右する。ああいう放送は今は無理だと思うので、いい時代になったものだと思う。 「バブルの時代はよかった」「80年代は幸福だった」。一面的…

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9/14の「不適応者の居場所」、小中高生もどうぞ

つながりをなくしがちな人がつながるための「不適応者の居場所」、9月は14日(土)にやります。今話題沸騰中の「休み明けに学校に行きたくない小中高生」の参加も歓迎します。 子供の自殺数が減らないことが問題視される   ⇓夏休み明けに子供の自殺が多い   ⇓「夏休み明けに学校行かなくていい」の大キャンペーン という流れなのだろう。新聞を見ても、この手の記事の多さには驚くほどだ。こういう「統計的な姿勢」には、まあ疑問もある。自殺をしなければ何でもいいわけでなく、「苦しまずに生きること」が一番大事だと思うので。とは言え、方向としてはいいし、呼びかけそのものも、昔のような「負けるな」的なものでもないので、特に文句を言う気もないが。 日時:9月14日(土)18時~5時間?場所:高円寺 素人の乱12号店やること:飲食(酒含む)をしながら好きなように駄弁る(何も話さなくても可)。飲食はカフェテリア方式で。費用:会場代、食べ物(ビーガンの料理とスイーツのケータリング)代、酒・ソフトドリンク代の2万5千から3万円をカンパで賄いたい。カンパ箱は入口付近の台上に。酒を飲まない人は少なめでいいですが、会場代もあるので、飲食しない人もカンパはしてほしいです。対象:ひきこもりがち、フリーランス、労働週4以下、メンヘラ、社内・校内ぼっちなど、様々な理由でつながりをなくしがちな人。厳密ではなく。注意:ハラスメントはなしで。勧誘も不可。参加者の相互扶助で成り立っている会なので。一方的な支援活動ではありません。 ※会場奥に0…

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西伊豆・田子瀬浜のシュノーケルと冒険の効果

西伊豆の田子瀬浜でシュノーケリングをしてみたのだが、ここにもそこそこサンゴや熱帯魚が見られることが分かった。ここの特徴は、海岸の向かいに泳いで行けるところに尊之島という小島があって、その周りを勝手に見て回れるところだ。魚を見るのに砂浜はまったく必要ないので、こういう場所はシュノーケルに絶好と言える。 尊之島では静かな右側のほうにどんどん進んでいくと、ソラスズメダイの群れがたくさんいた。西伊豆独特の切り立った岩や岩穴があり、そこを海中を見ながらくぐるのも面白い。サンゴは島よりも海岸の右側に多かった。南伊豆のヒリゾ浜ほどではないが、こちらは広々としているところがいい。 こういう好き勝手な場所でやるシュノーケルを、『ロンリープラネット』に倣って「DIYシュノーケル」と呼んでいる。魚が多い場所を探すとなると、どうしても人気のない「行ってはいけない場所」になってしまうので、DIYシュノーケルには冒険・探検の要素が入ってくる。道かどうか怪しいところをかき分けて海に入ることもある。 熱帯のジャングルでそんなことをやっていた時、海にも出られず、戻る道もわからなくなり、本気で死ぬかと思ったことがあった(GPSがあっても)。潮の流れが速くて、流されそうになったこともある(泳いでも泳いでも潮の流れがほぼ同じくらい)。大抵は濡れた岩場を歩いて海に出るので、よく滑って転ぶし、いつか骨折するだろうな、海外で骨折したらどうなるんだろう、などと思っている。それでも自分は相当慎重なほうだと思っている。やる人は十分注意しましょ…

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8月「不適応者の居場所」の報告

8月の居場所は、お盆休みだったせいか(その割には仕事が休みではなかった人も多かったが)、再び人数が増えて、20時頃はほぼ上限だった。女性が半分くらいでこれまでで一番多かった。また仙台から、ひきこもりがちの19歳がはるばるやってきてくれたのは嬉しかった。 地域のつながり作りについての話は面白かった。こうして集まっていても、地域の居場所やつながり作りには、皆あまり行かないようだった。行政がやっているようなコミュニティカフェや公民館の趣味サークルなどにも。自分もあまり行く気がしない。そういうところの主役は高齢者と母親層なのだろうが、価値観が合わない気がする。ひきこもっている間は、近隣の目に触れないように、昼間に外出しなかったと言う人もいた。そうなると、地域はつながる場どころか、むしろ避けるべきものであり、集まりになど行けるわけがない。行くなら、少し離れた街の集まりがいい、という話はよくわかる。地域の~というのは、実に微妙なものなのだ。 その他、一日店長ではなかなか食べていけないという話や、ユーチューバ―やブロガーなんかは何が原因で「ハネる」のか、なんていう話もとてもためになった。こういうやり方で食べていけるようになったら、本当に理想的なのだが。 それと、何かのきっかけでちょっと学校から離脱する人くらい出ても全然おかしくないのに、そのちょっとがこれほどの重大事に至る仕組みになっているのか、変えられないのか、とても疑問に思う。ちなみに会場も、もう少し広くて、土曜も取れる場所を引き続き探しています。知っ…

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不審者通報を「する側」と「される側」の違いって何なの?

川崎での殺傷事件があった頃Twitterで、「公園のベンチに座っていただけのおじさんが、ママ友集団に不審者通報された」という事件が批判的に広まったことがある。 公園のベンチに座っただけで通報されたおじさん 不審者扱いの理由は「普段は見ない人。スマホを使っているから盗撮かも」 (キャリコネニュース)驚いたのは、それに対して「悪くない、どんどん不審者通報をしよう」というツイートもまた、拡散されたことだ。興味深いのでそうしたツイートも色々漁って読んでしまった。ネット右翼など、特定の考えの人たちが言っているわけではなく、多くは「子供を守るため」「犯罪をなくすため」という正義感を持った人たちのようだった。 自分が疑問を持ったのは、そうした発言のすべてに、通報される側にいる人々のことが、まったく頭にないことだった。そして不審かどうかの判断を、通報する人間が完全に恣意的に行えることへの疑問もない。 不思議な気持ちになった。同じ地域に住んでいる人間のなかで、なぜ一方には自らを「通報する側」という特別に有利な立場と自認している集団がいて、もう一方には「通報される側」という不利な立場に置かれる人間が生じるのか。もちろん自分は後者に入るし、「平日昼に地域をウロウロしている高齢者でない男」は、皆そうなりうる。一人でいる、子供を連れていない、など他にも色々あるだろう。逆に、「子供を連れたママ友集団」は絶対に通報されないと断言できる。 地域における「生きやすさ」は、すでにそのくらい違っているのだ。近隣の目を怖がること…

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真夏の「不適応者の居場所」

暑いですね。暑い時は水風呂が最も効果的だと思いますが、それにしても暑さ対策にばかり目が行って、人とのつながりはいつにもまして減ってしまうのではないでしょうか。 そんなつながりをなくしがちな人の集まり「不適応者の居場所」、8月はお盆休みの16日(金)にやります。ひきこもりがち、フリーランス、労働週4以下、メンヘラ、社内ぼっちなど、様々な理由でつながりをなくしがちな人が、単に駄弁ることでつながりを回復しようという趣旨。ただし、参加資格など厳密なものはないので、気軽にどうぞ。 日時:8月16日(金) 18時~5時間?場所:高円寺 素人の乱12号店費用:会場代、食べ物代(ビーガンの料理とスイーツ)、酒・ソフトドリンク代の2万5千~3万円をカンパで賄いたいです。注意:ハラスメントはやめてください。勧誘目的の参加も。人づきあいが苦手な人が多い場です。 ※会場内に0円ショップコーナーを作ります。放出品がある方は何でも出してみてください(ただし残ったら、本人が持ち帰り)。※途中から参加、途中退出はもちろんOK。座る場所をあちこち変えるのも、こういう会では普通です。※ほとんどの方がひとりで来られます。初めての方も、毎回三分の一ほどいます。 人間関係は、そのために個人が奉仕するのではなくて、個人が自分が楽になるために利用するものであるべきです。個人が楽になるために、各自が好きな分だけ人間関係を利用すりゃいいと思います。 趣旨 これまでの様子

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初夏の「不適応者の居場所」の報告

7月の不適応者の居場所、初めて来られた方や、会社勤めの方が多かった印象。以前のように超満員ではなく、ほどよい混み具合だった。一日店長をやられている方や、一日店長のバーに行っている方、あるいは居酒屋を交流の場にされている方など、色々なつながり作りがあることを知る。自分も最近、偶然見つけたあるパンク・バーに入って盛り上がった話などしたが、やはりそういう場に行くのには敷居の高さを感じる方もいる。この居場所は人付き合いの苦手な人が多いのだから、敷居を低くしたいものだ。 もちろん人間関係や生きづらさの話など、どんな話題も出るのだけど、この日は趣味の話もよく出た。音楽や好きな音、マンガ、本、映画、アニメ、ゲーム、スポーツ、Twitterでよく見ている人、街歩き、海外、野鳥、自然、等々等々。そんな話がよく飛び交う。ある人から「私は〇〇が大好きなんですよ」と聞いた時が、一番その人がわかった気がするし、続いて「えっ! 俺もそれ大好きなんですよ」となった時の、一気に距離が近づく感じは何なのだろうといつも思う。もちろん自分が趣味に入れ込んだ人間だから、そう思うだけかもしれないが。 もちろん、話がさっぱりわからない人がいるかもしれないので、十分気をつけなければならない。自戒を込めて。けれども、通常「社会議論」などに比べて「他愛もない」と低くみられがちな「趣味の話」、価値がないなんてとんでもない。楽しむことが人生の最終目標なのだから、まったく侮れない。(趣味がない人も楽しめる集まりです。念のため) ※おま…

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川崎殺傷事件報道があおる「自殺したい人」への偏見

「自殺をする人は他人を殺しかねない」。川崎の殺傷事件を「拡大自殺」などという自殺の一形態と見なす報道によって、こういうイメージがまき散らされた。拡大自殺とは、自殺したい人が他の誰かや社会に恨みを持っている場合、まずその相手や見知らぬ人を殺してから自殺することを言うらしい。 その拡大自殺の提唱者である片田珠美氏が、その説の元にしているのが、「自殺とは他人を殺したい願望が自分に向かった形である」という「自殺と他殺は表裏一体」説なのだ。その説は彼女の著書『拡大自殺』のなかでも説かれている。こういうおかしな仮説は「死にたい人」に対して、人殺しをしかねないという偏見を生んできた。 こういうことは、傾向としてあると言えるのだろうか? 実際に、数え切れないほどの自殺者の事例に当たり、まわりの死にたかった/死にたい人の話を聞き、何よりも自分が死にたいと思っていた時の経験から言うと、自殺したい人が他人を殺して恨みを晴らしてから死のうとするケースは滅多に見られないと言うほうが正しい。 自殺しようとする人も、「どうせ死ぬのだから何でもできる」などと思っているわけではない。もちろん例外はあるものの、死体の見栄えや迷惑をはじめ、自分の死後のイメージを強く意識するものだ。そもそも、自分の今の苦しみと死と格闘することで精いっぱいで、その前に復讐のために人を殺すという一大事を持ってくるエネルギーなどない場合が多い。 もし日本の自殺者のわずか1%にでも、こうした復讐の殺人を犯す傾向があるとしたら、毎年200~300件の「復…

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