2017年12月14日

新刊『0円で生きる』の目次

0円で生きる 表紙正.jpg新刊『0円で生きる──小さくても豊かな経済の作り方』が発売になった。
日常的な様々なことを無料でやる方法と、なぜ無料が必要なのかの解説が書いてある。詳しい出版の意図などはまたあらためて書くとして、まずは目次を紹介したい。じっくり書いただけに、他の本に比べて内容が詰まっているところが売りなので。


まえがき

1.貰う──無料のやり取りの輪を作る
贈り物を貰おう/「不要品放出サイト」で貰う!/不要品放出市〈0円ショップ〉」/不要品を回す「店」/世界に広がる不要品市/カンパを貰う方法/クラウドファンディングで集める/「寄付」もいつかは返ってくる
<この章のレクチャー>贈与経済とは何か?
普遍的な経済の形は「贈与」/増える日本人の贈り物/なぜ寄付をするのか?/贈与はいいことばかりではない

2.共有する──余っているものを分け合う
当たり前だった「貸し借り」/自宅パーティー、道具、服、DVD/人の家に泊まる・泊める/スイスの青年を六週間泊めてみた!/無料で泊まれる〈カウチサーフィン〉/ベトナムでのカウチサーフィン体験/有料で部屋を借りる・貸し出す/車を相乗りしよう/「ヒッチハイク」も空席のシェア/ネットの無料共有物を使う/庭を解放する「オープンガーデン」
<この章のレクチャー>なぜ私有が行き渡ったのか?
農耕社会が土地の私有を生んだ/日本の共有財産「入会地」/共産主義は共有財産社会を目指した/新しい共有の時代

3.拾う──ゴミは宝の山
近所のゴミ、店のゴミ/おから、野菜、新聞、食器……/職場から売れ残りを貰う/ゴミを拾う時の注意/自治体との問題/都心のゴミ観察レポート
<この章のレクチャー>捨てる問題と拾う人々
食べ物はどの段階で捨てられるか?/管理が厳しすぎる日本/ゴミを救出する人々/拾って貧しい人に回す/廃棄に立ち向かう欧米/すべてのゴミに目を向ける

4.稼ぐ──元手0円で誰にでもできる
もうひとつの経済を作る/フリマで売ってみる/フリマの主催は楽じゃない/やりやすい「イベント出店」/ケータリングも元手いらず/「移動屋台」は出店場所が決め手/公道から屋台が消えた/日替わり店長になる/自宅を店にする
<この章のレクチャー>市とお金と資本主義
お金を使うのが悪いのか?/市の始まり/お金は物々交換から生まれたのか?/資本主義の前と後/市としての「コミケ」

5.助け合う──一緒にやれば負担が減る
二人以上でやることはすべて「助け合い」/相互マッサージ、料理持ち寄り、英会話サークル/「輪番制」を使う/手伝う代わりに寝場所と食事を/合宿型ボランティア「ワークキャンプ」/海外ボランティア体験談/一般のボランティア活動/悩みを分かち合う「自助グループ」
<この章のレクチャー>日本の「助け合い」とそのマイナス面
力を合わせる「ユイ」「モヤイ」/一方的な支援「テツダイ」/お金を積み立ててまとめる「頼母子」/ヨーロッパの助け合いも同じ/村八分=助け合いのマイナス面/「ムラ社会」を越えて

6.行政から貰う──もっと使える公共サービス
再分配を貰おう/図書館は大切な「居場所」/公園・霊園でくつろぐ/国公立大学のキャンパスで憩う/ライヴも開ける公民館/生活保護は権利/職業訓練でお金を貰う/やりがいのある「地域おこし協力隊」/スポーツ施設で鬱屈の解消を/驚くほど多い「無料相談」/市民農園、博物館、見学会……
<この章のレクチャー>再分配は富の偏りを正す
太古からの政治の中心的役割/一パーセントが半分以上の富を持つ

7.自然界から貰う──無償の世界
育てる(薬味・調味料、香味野菜/ハーブ/サラダ・葉物野菜/大きめの作物/難しい作物/栽培上の注意)/採取する(野草/茶/その他)/鑑賞する(木や花を見る/野鳥を寄せる/魚を見る/環境全般を楽しむ)
<この章のレクチャー>自然界と「無償の贈与」
自然界は贈与で成り立っているのか?/人類は「無償の贈与」を尊重する/今も残る「神への贈与」

あとがき

『0円で生きる』
posted by 鶴見済 at 11:24| Comment(0) | 0円で生きる | 更新情報をチェックする

2017年12月05日

「死にたい」に対する謎の上から目線

座間の事件をきっかけに、自殺に関する連続ツイートをしたので、その記録を残したい。
ここからあれこれ文章化しようとすると、面倒になって残すことすらやめてしまうので、そのまま転載する。

ひとつだけ。
「#自殺募集」というツイッターのタグがニュースなどで話題になった直後、ここに自殺をやめさせようとするツイートが多く寄せられた。自分がこのタグを見た時、何百もリツイートされて上位に来ていた話題のツイートはどれも、そんななかの薄っぺらい説教に対する怒りだった。

この怒り。自分にもあったどころか、自殺についてものを言う原動力のひとつだった。
死にたくなっている人は、他の誰よりも生きづらさの真っただ中にいるのに、こと自殺となると、なぜか上から目線でたしなめるような、あるいは叱るような態度を取る人が多い。自分が若かった頃は、もっともっと多かった。
そこに出てくるのが、「弱い」「命の大切さがわかっていない」「前向きになれない」「もっと大変な人もいるのに」といった、まったく心に響かない言葉の群れだ。
死にたい人より自分のほうが、よくものをわかっていると思うのも間違いだ。
そんなことはわかっていても、死にたい気持ちは強くなってしまう。死にたいというか、こんな人生にはこれ以上興味が湧かない、もう愛想が尽きたという気持ち。

うまく言葉にならない、あるいは100万語でも言いたいことがあるこの怒りを、他の人のツイートでありありと思い出した。
ちなみに自分も、自殺を回避できるならそれに越したことはないと思っていることは書き添えておこう。余計な誤解を生まないように。

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話題の「自殺募集」タグで上位に来るのは、意外にも薄っぺらい説教への怒りのツイート。死にたい人から見たら、その気持ちがわからない人は人生経験が浅いと見えているはず(ある意味そのとおり)。「親から貰った大切な命云々」といった薄っぺらい言葉・倫理観など、ギリギリの人に通じるはずがない。
https://twitter.com/wtsurumi/status/926083377555374081

「障害があっても前向きに生きている人」「流産で生まれることもできなかった赤ちゃん」もいるのに、などと、死にたい人の苦痛を相対的に軽いものと見なして自殺を止めにかかるツイートも、嫌な気分になる。個人が感じる生きづらさの軽重は、そんなふうに比べられるものではない。
https://twitter.com/wtsurumi/status/926089811785482240

死にたい人は一時的にまともな判断力をなくしているのだという、よくある解釈もあまり好きじゃない。正常な人なら誰もが生きたいと思うほど、この社会で生きることは素晴らしいことじゃない。あるいは、生きることはそんなに言うほど素晴らしくない。素晴らしい素晴らしい言いすぎ。
https://twitter.com/wtsurumi/status/927173060850937857

死んでほしくない人が自殺したいと言ってきたらどうするか? 自分なら、普通にきついと言ってる人とするような話をするだろう。楽になるあんなやり方や、こんな音楽もよかったよなどと。そのうえで、今やらなくても、様子見てればよくなるかもよ、くらいは言うかもしれない。(続く)
https://twitter.com/wtsurumi/status/926447631588458496

自殺だけやめさせようとしていると思われないように気をつける。自分が死にたいほうの立場だったら、誰のために言ってんだろうと思うから。
https://twitter.com/wtsurumi/status/926451532299509761

自殺したい気持ちを抱える人について、「自爆テロにもなりかねない」とか「方向が変わればオウム真理教になる」などと言う輩がいるが(「自殺マニュアル」についてそう言う阿呆もいた)、人一倍苦しんでいる人間に対して、とんでもない侮辱だ。自殺を犯罪のように見なして忌避する風潮はなくしたい。
https://twitter.com/wtsurumi/status/925709032970584064

死んでほしくない人が死にたいと言ってきたら、紹介してみたいもののひとつに「認知の歪みの10か条」がある。認知療法で使われるものだが、読むだけでも楽になる。実際にひどい状況である場合もあるが。かつて本にも書いた。
http://www.nakaoclinic.ne.jp/mentalhealth/mh_02_01.html
https://twitter.com/wtsurumi/status/926800214874210305
(死にたい人は認知が歪んでいると見なしているということではまったくない。念のために)

認知療法、認知行動療法は、保険診療で受けられる。自分も以前に認知療法と行動改善を合わせた認知行動療法を受けていた。効くとは限らないが、薬物療法に煮詰まっている時にいいかもしれない。
https://twitter.com/wtsurumi/status/927536454724546562

最終的には、律儀に悩み心配してばかりいるのがいいかげん馬鹿馬鹿しくなり、すべてどうでもよくなって、可笑しさがこみあげてきたりするのが、自分なりの理想的脱出法。こういう時、人は強い。
https://twitter.com/wtsurumi/status/927888206820814850

あまりにも悩み苦しんだ結果、すべてが馬鹿馬鹿しくどうでもよくなる開き直りの境地に至る最良のBGMはクレイジーキャッツ。そのうちなんとかなるだろう。
https://twitter.com/wtsurumi/status/928627508647309312

先日某紙の自殺に関する取材で、「死にたい人に何か言うとしたら?」と聞かれて「もっといい加減でいい、もっと不真面目でいいと思う」みたいなことを答えたのだが、真面目に思いつめる人より、ちゃらんぽらんな人のほうが生きやすいのだから、人生とは理不尽なものだ。ずっとそう思っている。
https://twitter.com/wtsurumi/status/932970533481672704

この世界はそれ自体としては人間の理性を超えている。−−この世界について言えるのはこれだけだ。(カミュ『シーシュポスの神話』)
人間の理性では割り切れない不条理なことはいくらでも起きると。
https://twitter.com/wtsurumi/status/932979015131963392

真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。それ以外のこと(…)は、それ以後の問題だ。(カミュ『シーシュポスの神話』)
https://twitter.com/wtsurumi/status/933347398474014722

自殺の問題に始まる『シーシュポスの神話』で、人生が生きるに値するか否かを考え抜いたカミュは、不条理に抗って反抗的に生きることは幸福であるという結論に達している。
https://twitter.com/wtsurumi/status/934064560444600320


鶴見済ツイートまとめ読み(twilog)
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2017年11月04日

『負債論』──物々交換はなく「貸し借り」があった

負債論.JPG負債論2.JPGお金と人類の歴史を、利益第一主義批判の立場からまとめるという壮大なテーマの本。
以下はこの本の内容と、ところどころ自分の考え。著者はアナキストのデヴィッド・グレーバーで、本の厚さは辞書並み。

負債があるというのは、それほど罪深いことなのだろうか。
かつての社会では「貸し借り」や「つけ払い」が当たり前で、誰でも誰かに「借り」(負債)がある状態が普通だった。それが歴史的に見ても、罪悪と見なされたり、あるいは人を奴隷のように支配するための道具となることがある。
お金での売り買いとは、その場で決済するシステムだが、お金が登場したあとも、貸し借りやつけ払いは普通に行われた。
しかし資本主義の社会になってからは、負債の罪悪化は決定的となった(例えば債務国の惨状を見ればわかる)。というのが、この本のメインの主張と言える。

真っ先に否定されるのは、お金がない頃、人々は物々交換をしていたとする有名な説。過去にも現在にも、物々交換の社会というものは存在しない。これは等価交換・即時決済という今の常識を過去にまで投影したかった、アダム・スミスの誤った説から来た。
では物々交換でないなら何なのかというと、「貸し借り」だった。後でその借りを返すことを前提として、人々は物を受け取っていた。
これは時間差のある物々交換とも言えるが、このほうがはるかに「ありそう」に思える。

贈り物をもらえば「お返しをすべき借りがある」と思えるし、物でなくても、助けたり手伝ったりしてもらえば同じように「借り」の気持ちが生まれる。
文化人類学の言うように、人間関係はすべて何かを「交換」するためにあるなら、そこには常に「借り」(負債)が生まれている。
こう考えれば、別のものと思われている贈与返礼・相互扶助も(資本主義以前の)交換も、ほとんど同じものと見なせてスッキリする。
ただし著者は、「人間関係はすべて交換」なんてことはないと強く主張しているのだが。

また著者の考えは、「人間らしいモラル」対「利益主義・計算主義」、「対等な人間関係」対「ヒエラルキー」、「名誉・信用」対「名誉のはく奪・奴隷」といったテーマを延々とめぐっていく。
どうである、というはっきりした結論に収束していくことなく、それはまさにめぐっているのだが、これらを最重要なテーマと考えていることは伝わってくる。

資本主義のはじまりを、ヨーロッパの大航海時代からと見ているところも興味深い。
またお金の始まりはというと、国家が軍人に渡す俸給を硬貨で払ったのが始まりと見ている。が、貸し借りの記録や証・印から貨幣が生まれたと言っているように受け取れる部分もある。

ただ、貸し借りは相手の信用という部分に大きく依存したやり取りであるため、信用があるのかないのかがことさら重要になる。確かに返しそうもない人には、あまり貸したくはならない。その人の信用や名誉が最も大事な社会というのは、あまり魅力的ではない。
それを考えれば、お金を使う社会にもメリットはある。

この本は意外にも読みやすいし、無数の実例が非常に面白い。
こんなとんでもないテーマに手を付けてもいいのだ、何でもやっていい、問題意識をちまちまと限定しなくていいと思わせてくれるところが、最もアナキストの著書らしいところかもしれない。
posted by 鶴見済 at 18:06| Comment(0) | 書評など | 更新情報をチェックする

2017年10月14日

「家庭のない定年前男女」は平日昼の住宅地に居づらい

201504191553001.jpg知人の50代男性が、仲間と平日昼間に近所の町中を散歩するイベントを企画している。それがやりづらいのはおかしいという意識からだそうだ。それを聞いて、必要なのはまさにそういう企画だなと思った。

「平日昼の住宅地にいる男は不審者扱いされる時代」などと言われるが、本当に許しがたいことだ。引きこもりの原因の一端もここにある。そんな空気のなかを出歩きたくないのは当然だ。
自分の地元には野宿者もいるのだが、彼らの居づらさは、我々の想像も及ばないほどだろう。
地域に居づらく、居場所がない人間は多い。

平日の昼の住宅地では、公園には母親と幼児、学校には子供たち、公民館には高齢者たちがいる。市が企画するイベントのチラシを見れば、それら「存在を認められた」層向けのものばかりだ。
お父さん、お母さん、子ども、おじいちゃん、おばあちゃん。昭和の時代であれば、それらの人たちが社会の構成員のほとんどだったと言っていいかもしれない。けれども今はそうではない。
今では大きな比重を占めている「家庭のない定年前の男女」の公の居場所はほぼない。行政にはそういう人間が見えていないのだ。

親子・高齢者層を自分たちと対立するものと思っているわけではないことは、十分強調しなければならない。自分にも家庭を持っている友人は多い。批判したいのは行政だ。

子育て支援、教育支援、高齢者支援等々、行政も各党も色々輝かしい政策を打ち出すが、「家庭のない定年前の男女」の生きづらさ問題など考えられていない。そうした相手にされてる層とされてない層の落差は感じざるを得ない。
こっちを見てもいない政治家を応援するのも、本当は空しい。残念ながら、左派政治家であってもそう感じる。

自分が参加している「0円ショップ」のいいところはひとつには絞り切れないが、自治体や国に目を向けてもらえない、あるいは住宅地で市民権を得ていない、地域に居場所が少ない有象無象の人たちの居場所になっているところもいい。以前にやっていた畑も、結局はそういうものになっていた。
そうした活動にはやりがいがある。

そして平日昼の住宅地を出歩こう。心ない連中にどう思われるかなど、気にしてやるだけ無駄だ。そんな連中に気に入られるために生きているわけではない。
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これはツイッターに連続的に書いた投稿を大幅に手直ししたもの。ツイッターへの投稿はすぐに消えてしまうので、本来長めに書いた方がいいこうした文章は、ブログに再掲載していきたい。と、以前から思っているのだが、なかなかできていない。
写真は、居場所のない人々の交流の場ともなっている0円ショップ。
posted by 鶴見済 at 12:05| Comment(0) | 生きづらさ | 更新情報をチェックする

2017年09月10日

贈り物とお返しの経済

61xjwKwgUzL.jpg贈与と返礼について書いた過去記事をアップ。
資本主義には贈与経済で対抗すべきだとは思っている。
ただし、贈与経済を極端に崇めるのにも抵抗があり、古い社会、村社会、人間本来の性質などについても同様だ。そんなにいいところばかりであったはずはないし、かつての風習の悪いところも見なければ、今の時代に合ったより良いものを作り出すこともできない。
村の相互扶助や共同作業に協力しない者への制裁として「村八分」はあったし、それ自体悪いものではないが、贈り物への義務とされた「お返し」を、現代でどう位置付けるかも問題になる。
こうした煩わしさから逃れるために、近代人が個人の自由を求めたことには、十分な理由があるのだ。
今の社会が悪いのはAというもののせいで、それをBというものに変えたら(あるいは戻したら)すべては解決するのだった!などという誰も気づかなかった「解」などというものはないのだ。
『気流舎通信1 SOMA号』という伝説のzine(2013年10月)に、「贈与とお返しの経済」のタイトルで寄稿した。この媒体も、今は品切れ状態だが素晴らしい。一部書き足した。

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ヒトは贈物をやめない

お中元は、一説には明治三〇年代に、大売出しを催す百貨店の影響で定着した習慣で、それが戦後ますます盛んになったのだそうだ。あまり感心しない経緯だが、それでも日本に住む人々は、夏の盛りの時期には盆礼、暑中見舞いなどの贈物をしてきたのだから、やはり興味深い。

クリスマスやバレンタインデーのプレゼントはより感心しないが、それらでさえ我々のなかにある贈物とお返しの不思議な「本能」のようなものを見せてくれるという意味で注目に値する。
他にも有形無形様々な贈与が、この社会にはある。お年玉、お土産、お見舞い、お祝い、寄付、募金、ネット掲示板の「あげます」情報、互助会、ボランティア活動、海外援助、歳末助け合い……。
なぜ我々はこんなことをするのだろうか?
ただで物を他人に渡してしまうなど、今の資本主義(カネ儲け主義)経済の常識からすると完全な「損」だ。各個人はこの「損」を減らし、一円でも儲けを増やすために、かかったコストにできるだけたくさんの儲けを上乗せして対価を得ようとするはずではないか。

つまり一般に言われるほど資本主義は勝利などしていない。これほど多くの資本主義的でないやりとりが、どうしても社会に存在してしまうのだ。我々のなかに、カネ儲けに覆われて見えづらくなった、ヒトという生き物が持つ大きな何かがある。

貨幣経済が普及する前の社会では、人々は互いに物と物を交換していたというイメージがある。けれどもこの物々交換は本当に起きるのだろうか? ある魚を持った人が、それを麻布と交換したいとする。けれどもちょうど麻布を持っていて魚が欲しい人はいないかもしれないし、万一いたとしても出会えないかもしれない。

文化人類学者のモースによれば、実は個人どうしの物々交換など存在しなかったそうだ(註1)。確かに物々交換経済のイメージは今の商取引に似すぎていて不自然だ。交換を行っていたのは、必ず部族などの共同体どうしだった。そして交換は、価値がつり合うものどうしの取り引きではなく、まずは一方的な贈与という形で行われたのだ。共同体に贈られた物は、誰かに独占されることなく、内部で分配された。そしてその贈与には返礼が行われるのが常だった。

D.グレーバーの『負債論』には、物々交換の社会などというものがなかったことが、より詳しく立証されている。では何があったのかというと、著者によれば「貸し借り」であった。貸し借りは時間差のある物々交換ともいえるが、そこには即時決済の概念がない。

こうした贈与と返礼の連鎖が経済を成り立たせていたどころか、それは宗教や政治などあらゆるものを含んだ制度で、経済などその一部分でしかなかった。
つまり、贈られるのは物に限らなかたっだろうし、それは今の贈与・返礼についても言える。この前歌を歌ってもらったから、今度はこちらが踊りを踊ってあげよう、でもいいし、のこぎりを借りたから、味噌の作り方を教えてあげよう、でもいい。無形の贈与まで含めて考えると、贈与の範囲は限りなく広がり、贈与も共有も交換も区別がしづらくなる。「○○してもらったから、××してあげよう」という気持ちのやり取りがあるだけなのかもしれない。

資本主義より大きなもの

ただしかつてはこの返礼は義務でもあったとモースは言う。我々が贈物を貰うと、お礼をしなければいけないような落ち着かない気分になるのは、そのせいかもしれない。
実は贈与・返礼の習慣も、いいことばかりではない。贈与には返礼の義務がつきものであり、それをしないと戦いになることもあった。より多く贈与する側が偉いと見なされたり、返礼できるかどうかに面子がかかっていたというのも、どうかと思う。女性が贈与される物として機能していることもあった。そもそもしきたりと人間関係でがんじがらめになるのは辛い。これらを見るにつけ、近代以降の人間が「自由な個人」になって気楽になろうとしたのには、一理も二理も三理もあると思える。

けれども自分は古いしきたりを崇めたいわけではない。ただ、古くからあることを今に生かしたいのだ。
返礼の義務などなくていい(註2)。自然界は我々に見返りを期待せず、エネルギーや食べ物を与え続けている。果樹や花も、甘い実や蜜を一方的に動物に与えている。その原則を自然界の一部であるヒトが身につけていないはずがないではないか。
返礼はできる時に、できる形で、できる分だけすればいい。贈与してくれた当人ではなく、別の人に返してもいい。それが巡り巡って、当人に返っていくこともある。「恩返し」ではなく「恩送り」という言葉が、かつてこの国では普通に使われていたのだ。それを考えれば与えた方も、返礼がないからといって怒ったりはしないだろう。これならカネがない人でも、カネを儲けるのが苦手な人でも、何らかの形でこの「経済活動」に参加できる。

これが資本主義よりはるかに長く続いてきた、ヒトという生き物の経済なのだ。
この社会で一番まっとうと見なされるのは、バリバリ働いてカネを稼いでいる人である。そもそもカネを稼ぐことしか、生きるうえでやるべきことがないような気がしてくる。就職活動や会社勤めやカネを稼ぐのが得意でないなら、生きていくのは物質面でも精神面でも辛い。いや、会社勤めやカネ稼ぎをしていても、十分生きるのは辛いのだ。これはいい加減になんとかしなければならない大問題だ。
ただし、我々のなかに眠る贈与の本能をもう少し目覚めさせるだけで、これが変えられるかもしれない。

(註1)『贈与論』(マルセル・モース著、吉田禎吾他訳、ちくま学芸文庫)
(註2)ただし返礼があったほうが、贈与・返礼の連鎖は続きやすい。無料でなにかを与えてくれる活動をしている人には、返礼として手助けしたり、カンパしたり、その人の店で何か買ったりしたほうが、その活動も長く続くだろう。
posted by 鶴見済 at 11:49| 人間界の経済 | 更新情報をチェックする

2017年08月27日

金なし生活者スエロと「労働と消費」の人生

スエロ.png『スエロは洞窟で暮らすことにした』という本について以前に記事を書いた。
スエロはアメリカのユタ州で一切お金を使わずに、洞窟のなかで暮らしている。彼はお金が生み出す様々な不安や不正と決別するために、お金を手放したのだが、彼ほどではなくてもお金に依存した生き方に疑問を持つ人は多いだろう。

お金を払ってほとんどのことを人にやってもらい、その分働いてお金を稼ぐこと、つまり「労働と消費」が我々の生の営みになっている。
労働時間と消費がどちらも減っているのだから、こうした人生への見直しが進んでいるとも見れる。ただしお金への依存が進んでいる側面もあるので、簡単には言えない。
「少労働、少消費社会」を目指したい。
以下は『scripta』という雑誌に2014年の夏に書いた記事。

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自分にも多少身に覚えがあるのだが、なるべくお金に頼らずに生きるのは決して楽なことではない。野菜を育てるのも、飲食店で食べるのをやめて弁当を持参するのも、物をなるべく買わずにどこかで調達してくるのも、どれも面倒だ。お金とは本来生活を便利にするための道具だったのだろう。けれども、何もかもお金任せにせず、自分の手でやってみたほうが「生きることへの興味」が湧いてくるように思える。賃労働と消費の生活を続けていれば、食べていくことはできるかもしれないが、肝心の「生きることへの興味」がなくなってしまうのではないか。思えば、自分が賃労働生活から降りてフリーランスになったのも、それを恐れたからだ。

とは言っても、多少お金を使わないようにするだけでも相当面倒になるのだから、一切お金を使わない生活がどれほどかは想像を絶する。それでもお金を使わずに暮らしている人はいる。イギリスで二半年以上もお金を使わずに生活する実験をしたことで知られるマーク・ボイルの『ぼくはお金を使わずに生きることにした』(紀伊國屋書店)によると、彼が見つけたお金を使わないで暮らしている人はたったの二人。一人は留守宅のハウスシッターやバーター取引で暮らしているドイツの女性・シュヴェルマー、そしてもう一人がここに紹介するアメリカの男性・スエロだ。

そのスエロの伝記とも言える『スエロは洞窟で暮らすことにした』によれば、彼が住んでいるのはアメリカ西部ユタ州・モアブの洞窟。食べるのは捨てられている食品や野生のもので、人に招かれてごちそうになることもある。衣類もゴミのなかから調達し、移動には自転車やヒッチハイクを利用する。こうして彼の金なし生活は十数年にも及んでいる。もちろんゴミを漁っているだけではない。彼は図書館のコンピュータで自分のウェブサイトも作っているし、ボランティアで様々な仕事もしている。その生活が楽だとは到底言えないが、普通に賃労働をしている人よりも充実しているかもしれない。

この本にはお金を使わずに生きる方法が詳しく書かれているし、金融経済の問題や食料の配給など様々なオルタナティブな活動についてもわかりやすくまとめられている。けれども、スエロの旧友でもある著者が関心を持ったのは、どうやら彼の金なし生活そのものではない。膨大なページを彼の遍歴の記述に費やしているのだ。クリスチャンとしての生い立ちや自殺未遂。様々な支援・慈善団体を渡り歩いては、偽善に直面して離れることの繰り返し。平和部隊として赴いた南米でもインドの聖地でも、やはり幻滅を味わう。ほとんどの人がそうしているように、多少の偽りや矛盾など仕方がないと見過ごすことができれば楽なのだが、彼にはそれができない。
こうした遍歴のうちに、「お金に動機づけられた物事はすべて汚れている」と考えるようになった彼は、ついにお金を手放す。「どこにいようとも、そこが私の家」というのが彼の行き着いた思想だ。そして、ここでそのさすらいもほぼ終わったのだった。

もし私有という概念がなければ、あらゆる場所は皆の家だ。人間以外の生き物は皆、そのように感じているだろうし、前近代社会の人々にも多かれ少なかれそのような感覚はあっただろう。私有や売買が行き渡った近代以降の人間、つまり我々の価値観のほうがおかしいとも言える。そのなかで一人異を唱えるスエロは、地球上の生物圏全般を眺めてみても、人間の歴史を振り返ってみても、マジョリティの側にいるのだ。かつての社会では贈与、共有、相互扶助といった様々なつながりは、生の営みそのものだった。スエロは、そんな生き物としての本来の生き方を追求しているとも言える。
お金を手放しはしなかったものの、人生を深く真剣に生きるためにやっかいな森での自給生活を始めたH.D.ソローを思い出す。本気で生きようとすればするほど人は、面倒な道に足を踏み入れることになるらしい。

著者が最後に引きあいに出すのは、カミュの『シーシュポスの神話』だ。シーシュポスは神に逆らったために、岩を山の頂上まで持ち上げることを永遠に繰り返す罰を受ける。けれどもカミュによれば、この世の不条理に意識的であるなら、たとえ闘争に終わりがなくても、それだけで人の心は満たされるのだ。そして本書の著者も、シーシュポスを幸福だとするカミュに倣い、スエロを幸福であると結論づける。

個人的な考えを言えば、皆がお金を使うことをやめるべきだとは思わない。どうにかしなければならないのは金儲け至上主義(資本主義)が行き渡ったこの社会であり、お金の発生と資本主義社会の誕生の間には、はるかな時間の隔たりがある。だからお金を使うこと自体は認めてもいいだろうと思うのだが、スエロが夢見ているのは、「お金が過去のものになる日」なのである。その日は我々が生きている間にはやってこないだろう。けれどもやっかいな道に足を踏み入れることが不幸とはかぎらない。今の彼ほど「生きることへの興味」を感じている者も、他にいないはずだ。
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784314011136
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2017年08月06日

『おいしい資本主義』書評と個人の意見の大切さ

おいしい.png著者である朝日新聞の名物記者の近藤氏が、米作りに挑戦し、資本主義批判と脱成長論を展開している本の書評を書いた。
主張にはとても納得がいくのだが、「エコ」や「スローライフ」、さらには「まじめな人たち」への違和感まで自粛せずに書いていて、それがさらに本の主張をより独自のものにしている。こんなテーマの本にそれを書く人間が他にいるだろうか?
苦しければ苦しいと書き、納得いかない説には納得しない。いいことしか書かないのが普通の世界では、これは新鮮だ。個人の考えをちゃんと言うのはいいものだな、などと思えてくる。本の主張そのものより、その姿勢のほうに心を動かされたりする。
2015年の秋、『東京新聞』に書いた書評。

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衣食住のすべてをお金で買っている我我にとって、働くことはそのお金を手に入れるためのやむをえぬ手段にすぎない。お金にならない仕事はどんなに意義があっても、「食べていくために」諦めざるを得ない。しかしその諦めが蔓延した社会では、生きていくことはできても、肝心の生きたいという動機自体が失われるのではないか。
それならば、最低限自分の「食べていく」ものだけは作り、あとはやりたい仕事をやるという生き方はできないか。本書はまさにこれを実践しようと、長崎の支局へ異動した名物記者が、本業の傍ら毎朝一時間だけ自らの米を作ってみたルポとアジテーションの書だ。

ここで秀逸なのは、違和感があればどんな正論にも真っ向から異議を唱えていく姿勢だ。著者は資本主義を痛烈に批判するが、いわゆるエコロジー的な考えにも安易に同調しない。農薬の危険性は承知しながらも、周囲に害虫の被害を及ぼさないために自らもそれを撒く。山からの水を独り占めする大先輩とも、上手く関係を取ることで解決する。周囲との調和を最重要視し、人と人とのつながりを解体した近代社会を批判する。その一方で、近代化の産物である個人の自由をこの上なく愛しているのもまた著者自身なのだ。

資本主義、エコロジー、近代主義、反近代主義、いずれの考えも完全に正しいわけではない。それらを丁度よく修正するには、どの立場にも迎合することなく、こうした丁寧な異論を積み重ねていくしかない。著者の馴れ合いを嫌う姿勢は、こうした点でも大きな成果をあげている。
この体験記を読んで、米作りが楽だと思う読者はいないだろう。また人一人が一年間に食べる米の値段は、それほど高くはない。買ったほうが早いと言いたくもなる。大きなものには抗うよりも諦めて従ったほうが楽なのだ。けれども著者が生き生きと抗っている姿こそが、そこに少なからぬ価値があることを訴えかけてくる。
posted by 鶴見済 at 19:53| 書評など | 更新情報をチェックする

2017年07月17日

ロックという音楽、下層の生きやすさ、ブレイディみかこ新刊の書評

ブレイディみかこさんの『花の命はノー・フューチャー』51Ystd7K-KL__SX353_BO1,204,203,200_.jpgの書評を書いた。

文中にもあるけれども、自分はかつてどうしようもなくきつくなった時には、ロンドン・パンクスたちのやけくそでふざけた曲をよく聴いていた。セックス・ピストルズの『スウィンドル』やキャプテン・センシブルのソロなんかがそうだ。こういうものを聴いて笑ってしまうのがよかった。

かつてロックは貧困者、移民、精神異常者、性的少数者、邪教徒など有象無象のはみ出し者たちの鬱憤を飲み込んでいて、聴いていて楽になった。自分はそういうところから世界を学んだのだと思うし、ロック以上に自分を救ったものはない。そこに込められたマジョリティーにならなかった者たちの感情は、日本に暮らす自分の日々を支えた。
イギリスにはたくさんの移民がいて、それはかつて世界中に植民地を抱えた大帝国だったからだ。イギリスのロックがレゲエやダブをうまく取り込めたのは、かつての植民地であるレゲエのふるさとジャマイカからの移民がたくさん住み着いていたからだ。
自分はロックの雑種性のなかに、「下層」を余儀なくされた、あるいは選んだ人間たちの連帯や反抗を感じていた。少なくとも自分はそういうものだと思って勝手に勇気づけられていた。今は少し違うものになっているように思えるが。

ブレイディみかこさんのこの本にも、まるでかつてのやけくそのパンクを聞いた時のような爽快感がある。
それは彼女がイギリスの貧困地区に暮らす、彼の地では差別されるアジア系移民だからでもあるだろう。
これはイギリス下層生活エッセーだ。

下層に開き直ることの価値 (鶴見済)

2017年06月02日

無料の放出市0円ショップ ただであげるのは「損」か?

201504191446002.jpgここ5年程、0円ショップという路上アクションを何人かの仲間でやっている。参加者が月一回、家の不要品を持ち寄って道の隅に並べ、道行く人にただであげているのだ。服、家庭雑貨、本、CDなどが、毎回シート4枚に広げるくらいが大体はけていて、街の名物になりつつある。詳細はツイッターアカウント@kunitachi0yenを見てほしい。放出品は、残った場合は持ち帰りだが、持ち寄り大歓迎だ。覗きにだけでもいいからぜひ来てみてほしい。

街頭では「なぜただでやっているのか」と聞かれることが多い。出しているものが家の不要品だと言うと大体納得してもらえるが、それだけでなく、面白い人がたくさん集まってくるなど他にメリットがたくさんあるので「損」などとは思わないのだ。
それでも、一銭にもならないことにこんなエネルギーを費やすのは「損」なのではないかと思う気持ちもわかる。それについて考えさせられることがあった。

0円ショップの初期からの常連だったKさんが、今年病気で若くして亡くなった。古着やレトロなグッズを見て回るのが好きだったKさんは、時には0円ショップ用に物を買うこともあると言っていた。自分はそれを聞いて、「それは違うんじゃないか」などと言ってしまったのだが、Kさんは「ひとつ高々50円や100円ですよ」と笑っていた。彼がその頃、自分の死を予感していたかどうかはわからない。けれども、亡くなった今にして思えば、あの世にお金を持っていけない以上、その使い方は正しかった。
今自分は、彼が出してくれたTシャツやジャケットを着て生活している。そのなかには彼が「鶴見さん、こんなのどうですか」と渡してくれたものもある。それはもしかしたら、彼がわざわざ買ってくれたものかもしれない。彼の贈与はこうして、彼の思い出として見事に残った。

「損」などではなかった。Kさんから貰った服がたくさんあるので、彼をいつでも思いだしている。
物には霊が宿っていて、それが贈り物を人から人へと動かす力になると考えた文化人類学者がいた。そんな、ある意味非科学的な考え方をする人がいてもおかしくないと思うほど、贈り物は不思議な力を持っている。
「見返りもなくあげること」については、いまだに自分のなかにも、肯定できるようなできないようなもやもやした部分がある。ただ、我々には必要以上に「損」だと思うくせがついているようだと、Kさんに教えてもらった。

0円ショップの映像:
不要品放出市「0円ショップ」について 鶴見済さん原田由希子さんインタビュー (8bit News)
http://8bitnews.org/?p=6313
ゼロ円ショップ (映像作家・中森氏による現場の様子。自分も色々話している)
posted by 鶴見済 at 11:32| 日記 | 更新情報をチェックする

2016年11月29日

「人からどう思われるか」を基準に生きるのをやめる

「人からどう思われるのか」。
現代人が最も熱心に考えているのは、結局これなのではないか。とても高邁なことを言っている人でも、案外これを一番に考えていることが透けて見えたりする。
ここで言う「人」とは、いわゆる「世間の目」に限らず、友人、家族、同じ職場の人なども含んでいる。

大原扁理君とphaさんとやるトークイベントが12月2日にあるが、この二人のいいところは「人からどう思われるかを基準にして生きる」というあまりにも一般的な現代的生き方をきっぱりと否定して、「自分の生きたいように生きる」ことを重視しているところだ。
かく言う自分もかつてはそう主張していたし、今もそれは変わらない。

「自分の生きたいように生きる」とは、自分勝手で子どものようだと思うだろうか? 簡単なのは実は「みんながやっているようにやる」ことのほうで、まわりに合わせていれば問題も起きない。そっちがあまりに簡単なので、「自分がどう生きたいか」などということは真剣に考えられていないのではないかと思うほどだ。

まわりの人からよく思われることでなく、自分が本当にやりたいことを大事にして生きていると、どうしてもまわりとずれてくる。自分重視の生き方は、本当は誠実に熱心にやらないとできないのだ。
けれども「周囲の誰もがいいと思う完ぺきな自分」が出来上がったとして、当の自分はその時幸せだろうか。「人からよく思われる」ことを一番の基準にしていたら、本来の幸せは望めない。

pha×大原扁理×鶴見済「それぞれの幸福の自給自足法」B&B(予約終了)
去年の同じメンバーによるトーク 
pha × 大原扁理 × 鶴見済 生きづらさの脱出法 (tsurumi's talk)
posted by 鶴見済 at 23:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きづらさ | 更新情報をチェックする