2019年06月16日

「不適応者の居場所」6月の報告

DSC_2096 ぼかし.JPG6月は告知を控えめにしたせいか、雨が降ったせいか、常時20〜30人くらいだった。スペースにもゆとりがあって、本来はこのくらいがこの会場には適正な人数なのだろう。

野外のライブ会場の音漏れを聴く集まりを呼びかけた話を聞くと、色々な集まり方があるのだなと感心する。この会から刺激を受けて、自身で集まりを始めたと話していた方もいた。またこの日、居場所の参加者がすぐ近くの駅前で同時進行で0円ショップもやっていた。広がってくれていて嬉しい。

精神的にいいという理由で自然にはまる人も結構いることに気づく。川べりに座って、水面を見たり音を聞いたりするのが落ち着くという話には共感した。
趣味の話というか、その人が好きなものの話は、何であれ面白い。



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2019年06月03日

6月の「不適応者の居場所」

6月の「不適応者の居場所」、また屋内でやります。
川崎の殺傷事件、そして元農水次官の殺人事件によって、社会不適応者受難の季節が始まっています(褒められることがないので、受難か何もないかのどちらかしかない)。「死にたい者は無差別殺人をしかねない」といった論調もまかり通っていて、うんざりさせられます。
ただ、こんな不適応者の危険視は、かねてから激しく行われており、今は多少マシになったほうです。
気楽に外出していきましょう。

日時:15日(土)、17:00〜5、6時間?
場所:高円寺・素人の乱12号店
料金:場所+食べ物(ビーガンのケータリング)+酒・ソフトドリンク代の2万5千〜3万円をカンパで賄いたい。
注意:相互扶助の集まりなので、ハラスメントや勧誘はやめてください。
※ 0円ショップのコーナーも作ります。使わない物がある方はご利用ください(残った場合は持ち帰りです)。

ひきこもりがち、フリーランス、労働週4以下、メンヘラ、社内ぼっちなど、様々な理由でつながりをなくしがちな人が、集まって飲み食いしながら駄弁る会です。
会話を気持ちの切り替えやストレスの発散に役立てましょう。楽になるために。

今回もまた土曜日が取れたので、人数が多くなることも見込んで、早めに始めます。早めの時間は空き気味だと思いますが、どうなるかわかりません。終わりのほうはおそらく空いています。
万一入りきれなくなった場合は、少したってから再度来ていただくことになるかもしれません。
途中から参加も、途中帰りもOK。帰る際は黙って帰ってもらっても大丈夫。
ほとんどの方がお一人での参加で、毎回、初めての方は多いです。

もっと広めの場所はいつでも探しています。貸してもいいよという方がいらしたら、床に座れるなど条件が色々あるのですが、お声を。

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2019年05月28日

エジプトの駄弁り文化はすさまじい

DSC_19562.JPGエジプトに少し長めの旅行に行ってきた。
自分は旅行中、そこに住んでいる人の暮らしに触れるのが好きなので、地域の屋台や小さな飲食店にばかり行っている。地元の人が乗りこなす小さなバスにもよく乗る(料金は15円くらい)。自転車や徒歩で、住宅地みたいなところを見て回るのも好きだ。

今回そんなふうに見ていて驚いたのが、都会でも地方でも盛んな駄弁り文化・カフェ文化だ。
カフェは夕方から夜にかけて、駄弁る人々で一杯になる。カイロのカフェが集中している地帯では、ざわざわと話声が響いている。地方ではサッカーの中継を大画面で見る人も多い。街頭テレビといったところか。
平日昼でも、水タバコを吸いながらのんびり話していたり、独特のボードゲームをしていたり。
カフェに限らず、街頭や公園のそこかしこに腰かけて、あるいは連れ立って歩きながら、延々と会話をしている。
大通りでない路地にも、子供も大人も人が溢れていて、彼らがまた立ち話をしている。

インドネシアをはじめ東南アジアでもよく感じたのだが、平日でも人々が夜に連れ立って外に出て、延々駄弁るという文化がある。学校や職場しか行くところがないような社会とはまるで違う。
エジプトは物質的には豊かな国とは言えない。失業率も高い。そんな場所で何か楽しめることと言えば、やはり会話ということになるだろう。何しろ無料だし、昔から親しまれてきた娯楽だ。
もしこの会話を毎日数時間でも心から楽しんでいるなら、他に何もいらないかもな、と思える。

もちろん、旅行者にはわからない仲間外れ、いじめ、敵対はあるに決まっている。第三世界はおおむね日本より荒っぽさを感じるので、こうしたものも日本より多い気がする。イスラム教が強いので、個人の自由という概念が強いとも思えない。と言うよりイスラム教圏は、日本も含め自分が行ったことがある地域のなかでも、同調圧力はMAXであると感じる。
それでも、駄弁る大勢の人々のなか路上に座っていると、浮いているくせに「ああいい感じだ」とどうしようもなく思ってしまう。
こうしたカルチャーのいい部分だけ、日本にも取り戻したい。あくまでも、いい部分だけ。
(※)写真は大都会カイロのものだが、地方のカフェでは女性は見たことがなかった。

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2019年05月19日

「不適応者の居場所@公園」の報告

5月の不適応者の居場所は、代々木公園で昼の時間にやった。
昼頃に場所を取りに行くと、天気がいいので花見でもないのにたくさんの人がピクニックしていて、なんとなく嬉しくなる。一人でシートを広げて座ると、池の噴水が見えて、風が吹いて来た。これだけでもう成功だよなあ、などと思った。
いつもより2時間も長くやってしまったのだが、いるだけでも気持ちがいいので、それほど疲れは感じなかった。

今回は自分で集まりを開いていた人、始めた人に多く会えた。バーの一日店長としてのつながり作りや、公園でごろ寝する集まりを始めた人、つながり作りとして0円ショップを始める人もいた。複数のシェアハウスでゲームなどをやる集まりを開いていた人とも話せたし、人が集まれるスペースをやっていた人は、今度路上鍋会をやるそうだ。
色々なやり方があって勉強になる。

よく言うことだが、「社会に適応できない(しない)人=何もできない人」、などということはない。人がやる無数のことのなかの、テキパキと動く、ハキハキ答える、職場集団に溶け込む、じっと動かず続ける、といったことが苦手というだけだ。けれども、こうした仕事でしか金を稼ぐ手立てがないこの社会では、それをもって社会不適応者と見なされる。
こうしたことは、200年前だったら誰もできなかっただろうし、今でも全員ができるはずのないことだ。

もちろん、何かの集まりを主宰することも、人がやる無数のことのごく一部であって、それができるできないで何かが大きく違うわけでもないが。
何かをしている人は偉くて、何もしていない人は偉くない、という空気が生まれるのは避けたい。そういう世界も知っているが、特に何もしていなかった自分は、とても居心地が悪かったので。
人が幸せであるためには、必ずしも何事かをなす必要はない。

次回は6月半ばの予定。雨が多いので外は無理。

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2019年05月10日

5月の不適応者の居場所は公園で

5月の不適応者の居場所は、前回の花見に続き、また代々木公園でやりたいと思います。
前回来た人に、公園と中とどちらがいいか聞いてみたところ、圧倒的に公園という答えだったので。また、公園などの無料の公共スペースを有効に使うことは、これからもっとたくさんの人がやっていったほうがいいと思うので。

日時:5月18日(土)13時〜18時くらいまで。雨天延期。
場所:代々木公園中央広場の噴水池寄り。正確な位置は、当日の開始1時間前くらいにtwitterで発表。
(外でTwitterを見られない人にはすみません。前回は花見のため、人が多くて場所がわかりづらかったのですが、今度はそれほどたくさんはいないのでわかると思います。目印も考えます)
費用:ビーガンのケータリング代15000円のみをカンパで賄いたいです。酒などの飲み物は各自持参+持ち寄りにさせてください。どれだけ人が来てどれだけ必要なのかわからず、前回は大量に余らせてしまったため。自分からは箱ワイン持っていきます。一応エジプトの土産(つまらない物)もあります。
注意:ハラスメントはなしで。勧誘目的の参加もご遠慮を。

ひきこもりがち、フリーランス、労働週4以下、メンヘラなど様々な理由でつながりをなくしがちな人が、駄弁りながらつながる集まりです。今、日本の社会に必要なのは、こういうものだと思ってます。
集団の一部になって安心する方向ではなく、個人が個人として普通に社会に在るために。










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2019年04月07日

「不適応者の居場所」花見の報告

20190406 (1) ぼかし.JPG4月の「不適応者の居場所」の花見、外でのんびりできてよかった。
フリーライターの方が、世界中を移動しながら仕事されてる話を羨ましく聞いたり。ヒップホップや最近の邦楽ロックなど、自分がよく知らないジャンルの話もまた、いいのを見つけたいが自分で掘るのは面倒なので、とてもためになる。
また初参加の女性が多かったのは、外でやったからなのだろうか。
19時に終了後、ずるずると23時まで残って飲み続けてしまった。

自分は酒が好きなので、こんなふうに安心して飲みながら、ああだね、こうだねと感心したり笑ったりしている時間というのは、自分の「いい時間」のなかでも相当上位に来る。これ自体が何かの手段ではなく、生きる目的の部類に入る(これは人それぞれだと思うし、自分も緊張しながら飲んでいる時などは、まったく別なのだが)。
場所取りを始めてから12時間も外のさっぱりした空気を吸ったせいか、今日は気分が軽い。

ただ、場所がなかなか見つからなかった人が多かったのは申し訳なかった。
当初は周りに人がいないようなゆるい花見を考えていたのだが、行ってみれば花見2週目なのに、そんな手頃な場所はなかった。その結果、グーグルマップで位置はわかっても、近づくと人だらけで、どれが我々のシートなのかわからなくなってしまった。
迷われた方、そして、スマホを持っていないので来られなかった方がいたらすみません。
次回は5月半ばの予定です。

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2019年03月25日

4月の「不適応者の居場所」はゆる花見

いつも「花見のように座って駄弁る」などと言って屋内で開催している「不適応者の居場所」、本物の花見の季節にも屋内でやるのはもったいないので、4月は公園で花見をします。ただし、混んでいる場所を避けた、単なるピクニックのような「ゆる花見」にしたい。こういうものを日頃から、皆やるべきでもあるし。居場所もピクニック形式でできないかなと、かねてから思ってました。
対象は例によって、ひきこもりがち、フリーランス、労働週4以下、メンヘラなど、様々な理由で日頃つながりをなくしがちな人。フルタイム勤務でも、学校に通っていても、つながりをなくしがちならどなたでも可。
つながりがないと、実は花見にも参加できないものなので、この機会にどうぞ。

日時:4月6日(土)15:00 13:00 〜6時間くらい?
場所:代々木公園(中央広場? 詳しい場所は当日11時半過ぎにtwitterで告知)
費用:ビーガン料理のケータリングと、酒・ソフトドリンクの費用2万5千円程度をカンパで賄いたいです。
注意:ハラスメントはなしで。ビジネスなどへの勧誘目的の参加もお断りします。
日没後は真っ暗になり、とても寒くなるので、開始を早めました。それを知ってか、みんな13時頃にはもう全開で、日が暮れるとあっさり帰っていた。その分終了も早まります。>


飲み物はいつもの量くらいは用意しますが、余るほどは買いません。そして、いつものような買い足しができません。コンビニなどは近くになく、最寄り店では売り切れているかも。終わりのほうは飲み物がなくなるかもしれないので、たくさん飲まれる方、後のほうに来られる方は、自分の分の予備を持ってきてもらえるとありがたいです。持参分は、カンパ少なめでいいです。
シートも座りきれなくなるかもしれないので、ある人は念のために持ってきてもらえると助かります(花見客が帰る頃には、シートや飲み物など、ゴミ箱に資源が溢れています)。

ちなみに、この日は花見ピークの翌週です。桜よりも、断然空いているほうを選びました。
ただ、代々木公園の花見の場所取りはやったことがなく、人数もつかめないため、主催者にもどうなるかわかりません。
正確な場所は当日午後にtwitterで告知することになりますが、中央広場の噴水池の向こう側あたりを狙ってます。
0円ショップは今回はありません。

「孤独感に苛まれて誰かと会話をしたい人が二人いたとする。その二人が出会うだけで、どちらが相手のために尽くすわけでもなく、一挙にギブ・アンド・テイクの関係が成立し、双方の欲求は満たされる。これが最も単純な助け合いの例だ。」(『0円で生きる』より)

それにしても、ブログが居場所の話だけになっているのはまずい。
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2019年03月17日

不適応者の居場所 3月の報告

20190316 (7) ぼかし.JPG3月はたまたま土曜日が取れたせいか、初めての人にもたくさん来てもらった。そのせいで一時会場が一杯になり、後に時間をずらして来ていただいた方が二人ほど出てしまって、申し訳ない。
下は10代から、地方から来ていただいた方も多かった。

覚えきれないほど色々な話をしたが、会社勤めの方で、毎日同じメンバーで昼休みをずっと話しながら過ごさねばならないのが苦しいという話は、リアルでためになる。
一方自宅で仕事されている方が、誰とも話さなくなると悩みを語っていたり。
そういう両面があるところが、丁寧に考えねばならない問題なのだと痛感する。どちらか一方に全員を誘導すれば解決するようなことではない。流動性の問題なのだろう。
ひきこもり、ニート、不登校、自殺に共通する、助けたいと支援する人・なんとかしたい問題と考える人と当事者の、感覚のずれの話もとても面白かった。
別に問題の話ばかりしているわけではなく、音楽の話なんかはやっぱり面白い。

次回は、花見をやろうかと画策中。ピークの日はずらして、場所も桜の下はやめておく、ゆる花見なんかどうかなと。

※写真は自己紹介をしているところで、このような時間はごく一部です。
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2019年03月03日

不適応者の居場所 3月は土曜日

つながりをなくしがちな人が駄弁ってつながる会「不適応者の居場所」、3月は初めて土曜日にやってみる。
会社にも社内ぼっちの人がいる。そうでなくても、会社以外につながりを持てない人が多いことが、あれこれのまずい事態を招いている。なのでこの集まりは、フルタイムで働くつながり欠乏の人にも来てほしかったけれども、会場は土日はいつも予約済みだった。今回は珍しく空いていたので、そんな人も来やすいようにと取ってみた。

問題は、ただでさえ人が多いのに、万一もっと増えたらどうするかということ。
そこで、時間を17時スタートに早めてみる。他にいい場所が見つからず、会場を物理的に広くすることは、今のところできない。それを時間軸を伸ばすことで解決したい。これまでから推測するに、一杯になるのは大体20時頃。17時台あたりはどうせ空いているので、ゆったりと確実に駄弁りたい人は、ぜひ早めの時間に来てください。終了も早めますが、そのほうが遠方の人も来やすいと思う。
もちろん基本的には、ひきこもりがち、フリーランス、労働週4以下、メンヘラなど、様々な理由で日頃からつながりをなくしている人に来てほしいのは同じ。中高生も歓迎。


日時:3月16日(土)17時から5、6時間
場所:東京、高円寺、素人の乱12号店
費用:カンパ制。会場代、食事代(ビーガン料理のケータリング)、酒など飲み物代の2万5千〜3万円をカンパで賄いたいです。
注意:一方的な支援活動ではなく、参加者の相互扶助の会ということを忘れずに。ハラスメントなんかは、助け合いとは真逆の行為です。人付き合いが苦手な人も多いので、特に。
※毎回0円ショップもやっています。放出品がある方は利用してください(残ったら持ち帰り)。
途中から参加、途中帰りも可。座る場所を何度も変えたりするのも、こうした集まりでは普通のことです。

詳細・コンセプト   前回の報告(写真あり)

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2019年02月19日

弱者認定をしてもらうことへの違和感

日頃から自らの弱さの公開はとても大事だと言っているし、自分でもそれをやってきた自負はある。けれども、自分はこんなにかわいそうな立場なんですよと世間や周囲に認めてもらおうとするのは、自分としてはちょっと違う。
例えば、自分は精神病だと言うことで、進んで弱者カテゴリーのなかに自分を押し込んでいけば、「かわいそう」というある種の特別扱いをしてもらえることは予想できる。
けれども、それはとてもムズムズする違和感のあることなのだ。
今は本当に色々な精神障害が認められるようになって、それは掛け値なしにいいことなのだけれども、注意すべきところもある。

DSC_1190.JPGミシェル・フーコーというフランスの思想家は、狂人と言われた人が古くから今までに、ヨーロッパでどんな扱いを受けてきたかを研究した。
かつて狂人は、村のなかで自由にしていたり、後には犯罪者や物乞いなどと一緒に収容所に閉じ込められていた。それが18世紀末から「精神病者」という「病人」として扱われるようになって、今に至っている。

それはいいことではある。
けれどもフーコーは、まさにここに大きな問題があると考える。狂人と呼ばれていた人が、病気で判断能力がないとされ、社会的な責任を免除され、精神科医の子供のように扱われるようになるからだ。
狂人はかつて、我々の「理性的にまとまった判断」を脅かす、不安にさせる、それなりの一個の存在だった。けれども、それですらない「かわいそう」でしかない存在になったわけだ。

これと同じことを、弱者認定の問題に感じる。
自分が90年代に、弱さを公開しつつも、弱者カテゴリーに入れてもらうようなことをしなかったのは、ここに抵抗があったからだ。
「かわいそう」扱いを受けて頭をなでられがならではなく、社会に普通にいる人たちと同じ位置から、社会にものを言う者でありたい。既存の社会通念を揺さぶるようなことをしたいわけだから。「かわいそうですね、助けてあげますよ」などと言っている人たちも、揺さぶる対象に入っているのだから。
わかりやすい弱者でない分、反発も増えるかもしれないが、その代わりにとても大事なものを守っているのだ。
これは社会にものを言う、言わないにかかわらず、もちろん精神障害だけの話でもなく、誰にでもあてはまることだ。

こういった内容は、140字のTwitterでは書けないので、ブログ向きであるなあ。
posted by 鶴見済 at 12:40| Comment(0) | 生きづらさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする