2007年01月30日

憲法”改正”の中身には気をつけたほうが

自民党が、今の国会で憲法“改正”のための大きなステップである「国民投票法」を無理に通そうとしているのが嫌だ。
全般的に、憲法のどこをどう変えるのかちゃんと検討されてるとは思えないんだが、なんでこんな“改正”の手続きばかりがどんどん進んでいったり、単に“改正”に賛成か反対かだけを訊いている世論調査が横行してるのか?

というわけで、自民党が2004年に発表した「憲法改正のポイント」と、翌年に出されて今の首相もベストだと言っている「新憲法草案」にリンクを貼っておく。

憲法改正のポイント
http://www.jimin.jp/jimin/jimin/2004_seisaku/kenpou/index.html

4番目の「公共」についての項目では、
“家族は、一番身近な「小さな公共」““国家は、みんなで支える「大きな公共」”
なんていう、ちょっとどうかと思う見出しがつけられていて、個人主義について否定的なことが書かれている。
(また資料1「憲法改正に国民の8割が支持」という世論調査結果の内訳を見ても、とても作為的で参考になる。)

自由民主党 新憲法草案
http://www.jimin.jp/jimin/shin_kenpou/shiryou/pdf/051122_a.pdf

こっちの前文には、
“日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有し”
なんてことまで書いてある。

実に国家主義、「公」主義的で、必然的に個人主義を軽視しがちな内容なんだが。
こういうものを国の最高法規にするのは極めてマズイだろう。
少なくとも、気をつけておいたほうがいいと思う。どうも、こういう個人の自由の抑圧的なことは、あまり声高には言わないようだから。
こういうことが広く意識されていれば、手続きだってそうズルズルとは進まないはずだ。

もちろん、最大のポイントである9条の書き変えと「軍隊の保持」についても反対だが、それについてはまた後で書こう。
posted by 鶴見済 at 19:31| 人間界の政治 | 更新情報をチェックする

2007年01月26日

缶ジュースに見る消費社会の問題

「缶ジュース問題」というのが自分的にある。

街中をよく見ると、あまりにもたくさんの缶ジュースというか缶飲料(清涼飲料水、コーヒー、茶なども含む)があふれかえっている。缶一本分の飲みものなんて、水飲み場や水筒でもあれば、もともとあまり必要なものじゃないだろうと思うんだが。もし、そもそも缶飲料自体がある程度ムダなものだとしたら……。

そのひと飲み分にごと使い捨てられる大量の容器のムダ。それらを24時間、つめたいとかあったかいとか温度調節してる無数の自販機の電気代のムダ(国内の清涼飲料の自販機260万台が使う電気は、原発1基分の発電量にもなるそうだ)。さらにそれらの缶飲料新商品にかけられる膨大な広告費のムダ。さらにさらに、それらの商品を企画し、製造し、運搬し、宣伝し、回収するすべての労働力のムダまで思いをはせると……(缶飲料のために一生を捧げる人だってたくさんいるだろう。コカ・コーラ社の人とか)。なにか途方もない気分になる。

しかも、そういう商品は缶飲料に限ったことでもない。必要がないとは思わないが、電気屋に並んでいる携帯電話やパソコン関連機器、音楽機器、スーパーにある化粧品や“洗剤的なもの”等々のあのおびただしい「種類」はなんなんだろうか?

先進資本主義諸国というか消費社会は、というより我々は、もともとそんなにはいらないものを大量に作って、買わせる、みたいなことばっかりやってしまってるように見える。 なにか、途方もない資源・エネルギーの浪費であるだけでなく、我々の生きるエネルギーの浪費というか。こういうことをやってると、第三世界の人は飢えるかもしれないし、我々自身だって生きるのが大変になっているだろう。

そう思って以降、缶ジュースを買わないためにペットボトルに水を入れて持ち歩き、反資本主義経済運動を勝手にやっている。

posted by 鶴見済 at 22:14| 人間界の経済 | 更新情報をチェックする

2007年01月23日

今、ここの自然回帰

すでに何度か言ったことだけれども、我々が食べているものは、不思議とみんな他の生き物(の死体やその一部)だ。食べものも、プラスチックや金属の工業製品みたいに工場では作れないのか?とも思うが、これがどうしてもできない。
つまり、身のまわりがどんなに工業製品で埋め尽くされていても、我々はどうしようもなく「食物連鎖」のなかにいる生身の生き物なのだ。自然界のなかに含まれているわけだ。

「自然回帰」は、別に都会を捨てたり、エコツアーに参加しなくても、例えば、自分の食べてるものをよく見るとか、星や太陽や月を見上げて、この世界の恐るべき広さや自分のいる場所について、ちょっと考えてみるだけでもできるはずだ。

そうやって、自然界とつながってる感覚を取り戻していくことは、「人間界」をマシな方向に向けるうえで、欠かせないだろうし、自然界に生じている問題(環境問題)にとってもいいだろう(なんてことを偉そうに言えた分際でもないが)。
しかし何よりも、人間界の価値観(例えば、勝ち組/負け組とか、国境線とか)を相対化できるので、自分的に気が楽になるのがいい。
そういう「今、ここの自然回帰」みたいなことが大事なんじゃないかと思う。

(ただし、政治の問題、特に憲法改悪のための手続きをやめさせることに比べたら、急を要することじゃないとも思うが)。  

posted by 鶴見済 at 22:50| 自然界 | 更新情報をチェックする

2007年01月20日

教育基本法の改悪を忘れないように

去年、教育基本法が改悪されてしまったことが、あまり世間的に話題になってないのが気になる。

この法律は、教育における憲法のようなものであって、公布以来60年目にして初めての、そして自民党結党以来の悲願の改定であって、なによりも「国を愛する態度」が教育に盛り込まれたのだ。
「個人の自由」が制限されて、「公」「国」のほうに締め上げられていくようで、まるで戦前の軍国主義に退行してるみたいだ。普通なら、もっと批判の声があがっても、少なくとも、もっとさわぎになっててもおかしくないはずなんだが。反対運動の盛り上がりをほとんど報じなかったマスコミも、様子が変だ。

大体、国を愛するかどうかなんて(それが“郷土”であっても)各自の自由・勝手であって、より多くの国民に愛される国にするのが行政の役目であるはずなのに、それをいきなり教育するだなんて、どう考えてもおかしいだろう。子どもにだって、国際規約で人権が認められてるんだから。
しかもこんな、論点をぼかして反対の声を報じない手口で、憲法まで変えようとしてるんじゃないのか? と心配になってくる。
だから、せめて自分は言おうと思った。

posted by 鶴見済 at 21:48| 人間界の政治 | 更新情報をチェックする

2007年01月18日

経済成長せずに幸せになること

今、若いフリーターが増大してしまっていることは、重要なテーマだと思う。

日本人は戦後、80年代まで、“働きアリ”とか“エコノミック・アニマル”と、世界的に蔑称されてきた。終身雇用と年功序列は、日本独自の制度とされていた。
50年代の戦後復興、60年代の“奇跡の”高度成長、80年代のバブル経済は、そうやって全員が「会社人間」として、(確か80年代半ばくらいまでは「週休1日制」で)働きまくった結果、実現したのだ。
そして今また、首相は「経済成長を!」と叫んでいる。
まだ経済成長したいのか? そもそも成長し続けなければもたない社会なら、いつか必ずもたなくなるはずだが。

若いフリーター層の増大は、主にバブル崩壊後の就職難のせいだろうが、そういう「会社人間」という人生に対する反発も大きかったはずだ(自分が若い頃はそうだった)。
フリーターが増えたことは、極端ではあったかもしれないが、一概に不幸な出来事とは言えない。多くの人は、会社や経済成長のためじゃなく、自分や家族が生きていくのに必要な分だけ働きたかったのだ。

国は、企業なんか優遇してないで、そういう自由な個人をサポートするための政治をすればいい。企業もそういうった流動的な雇用にちゃんと対応していけばいいと思うが(今でも日本で普通の中高年サラリーマンが転職すると、欧米ではそれほど下がらない年収が、半分以下になり、元には戻らないらしい。まだ終身雇用・年功序列を引きずってるんじゃないか?)。

経済成長はもういい。
大体、そんな過剰な生産やエネルギーの使いすぎをやめないから、環境問題だって解決できないし。
自然界のなかに含まれている人間界だけが、右肩上がりのグラフを永遠に描き続けることなんてありえない(いわゆる“持続可能”でない)。まわりの自然界と同じく、横ばいのグラフのもとで幸せになるべきなのだ。
そもそも、そんなには頑張れない。そこそこ頑張れればいい。

posted by 鶴見済 at 21:18| 人間界の経済 | 更新情報をチェックする

2007年01月15日

ヒトは死んだらどこに行くのか

またいきなりな話だが、自分の常識からすると、どう考えてもこの宇宙には”天国”も“地獄”も“あの世”もない(ついでに”神”もいないし”魂”もない)。
では、ヒトがこれまで地球上に何百億人生まれたのか知らないが、彼らはみな、どこに行ったのか? そして自分は、死んだらどこへ行くのか?

実は、彼らはどこにも行っていない。
どんな宗教や神話を信じている人であれ、事実としては、ヒトが生物である以上、他の生物とまったく同じように、分解・還元されて、有機物や無機物となってこの地球上に散らばったままなのだ。
つまり、”あの世”も”この世”も、ついでに”前世“も、すべてはこの”自然界”なのだ、事実としては(何をどう信じるかは個人の勝手だが)。

我々は、この自然界から物質を吸収して成長し、死んだらこの自然界に帰る。このことが、「自分が(最も根本的には)自然界に帰属している」という感覚の最大の根拠になっているかもしれない。
民族や国家や、あるいは会社といった人工的な共同体は、部分的な帰属先にすぎない、と思っている。

とりあえず、どんな人工的な環境に生きていても、ヒトが生物の一種にすぎないことは、(それから、どんなヒトであっても生物としてみたら大差はないことも)忘れたらマズイだろう。

まあ何と言うか、このテーマについては、とうてい一度には書ききれないし、今後もダラダラ書いていくことにしよう。

posted by 鶴見済 at 20:30| 自然界 | 更新情報をチェックする

2007年01月13日

”国のため”より”自分の生活のため”を

いきなり政治的、かつ大雑把な話だが。

今のこの国の政治が「国家主義化」してしまっていることに危機感を感じる。
「軍隊持つ」だの「愛国心の教育」だのと言われたら、そりゃ、いつだって危機感を感じるが、よりに
よってなぜこんなに経済的格差問題(あるいは労働・雇用問題)で社会不安が増してる時に、“国のため”の政治ばかりが行われてるのか?

そんなことに税金を使ってる場合じゃないだろう。“国民のため”の(失業保険などの)社会福祉に力を入れてる場合だろう、と思うんだが。 そうすることで、国民の生活の不安がまったく消えるわけじゃないが、少なくとも、そういう方向に政治が向いているというだけでも、安心感は増すはずだ。
今はもっとたくさんの人が、こういう“自分の生活のため”の要求をがまんしないで、政治に向けていくことのほうが大事なんじゃないか。そのほうが結果的に、国だってよくなるだろう。

憲法“改正“なんてやらなくていいのだ。
憲法は今のままでいいから、その途方もないプロセスに費やしている、甲斐があるとはとても思えないエネルギーを、もっとマシなほうに向けてほしいもんだ。特に今の首相は。

posted by 鶴見済 at 22:30| 人間界の政治 | 更新情報をチェックする

2007年01月11日

ブログを始める理由

今頃になってブログをはじめようと思った理由は、ひとつには社会(特に政治)の状況が悪くなりすぎてしまって(と自分には思える)、遅まきながら、何か反対の声をあげないとヤバイと思ったため。
もうひとつは、プロフィールにも書いたとおり、我々各個人や「人間界」が「自然界」の一部分にすぎないということを主張したいためだ。

とは言っても、肩に力を入れすぎると、かえって書けなくなったりするので、あまり考え込まずに、ザーッと書いていこうかと思う。
他にも色々雑多なことを書いたり、後で書き直したり、消したり、編集したり、あるいはすごく間があいたり、単に続かなかったりするかもしれないけれども、どうぞよろしく。

posted by 鶴見済 at 16:48| 日記 | 更新情報をチェックする