街中を眺めていると、「都市に生きてるヒトは、生き物としていったい何をやってるんだろうか?」と不思議な気分になることがある。
本来「生き物として生きるために必要なこと」、例えば衣食住に関すること(食べ物を獲ったり育てたり、服や家を作ったり)は、ほとんど何もやってないのだ。
で、それを人にやってもらうカネを稼ぐために、誰が生きるのに役立ってるのかわからないような書類の整理みたいなことばかりやっている。
こういう“仕事”が実質的には、「生きるのに必要なこと」にすり替わっている。
都市生活者は、こういう“デスク・ワーク”(机に向かってすること)に加えて、“趣味”(音楽を聴いたり、映像を見たり)や“スポーツ”なんかも、かなり猛烈にやってるように見える。
けれどもこういったことは、基本的にまったくやらなくても、生き物として生きていけるはずなのだ。
(学校時代を思い返すと、やってたのは勉強とスポーツと趣味ばっかりで、それに長けている人ほどほめられるような空気があった。この社会はこういう人間を育成してると思う。)
大ざっぱに言って、都市部に住んでる我々がそれらの努力の一部分でも、こういう「本来生きるのに必要なこと」をするほうに向けてたら、「世界で飢えてる人の半分は、食べ物を作ってる“農民”である」という信じられないような事態も、多少はマシになってただろう。
大体どんなに生活環境が変わったところで、この身体はそんなに簡単には変わらない。太古から相変わらず、本来生きるために必要なことをするようにできてるわけで、こんなことでは体が満足しないはずなんだが。
けれども、今「本来は」なんてことを言ってたら、逆に生きていけなくなったりするのだから、一体どうすりゃいいのかわからないんだが。
ただ「家事」なんかは、衣食住に深く関わっているので、せめて、そういうことを少しずつやっていくのはどうだろうか?
(ちなみにこれは、『パパラギ』という、サモア諸島の酋長が、ヨーロッパ白人の社会を批判した本に触発されて書いた。彼は、「ヨーロッパでは、都市の人間のために周辺の農民が、自分たちが食べる分以上の食べ物を作ってあげているのが変だ」などと言っていて、ハッとさせられるところが多い。)
2007年02月28日
「生きるのに必要なこと」とは何だったか?
2007年02月25日
働けないのは「自己責任」なのか?
うつ、内向的、口べた、対人関係が苦手といった人にとって、この社会で全盛を極めている“人を相手にする仕事”はもともとキツイものなのに、ネオリベラリズム的な競争至上主義の労働環境は、ますますそういった人たちを仕事から遠ざけたに違いない。
それだけでなく、普通の人のなかにも「仕事が苦手」という意識を植えつけてしまったんじゃないだろうか? 多くの人が、仕事に対する自信を失ったというか。
そもそも今のこの国の労働・仕事について言うなら、適応できない側よりもむしろ、労働自体がキツすぎるのがおかしいのだ(日本人の残業時間は世界一長いし、カローシ<過労死>という日本語は世界共通語になってしまっている)。
会社側も、そんなにバリバリに社員をこき使って「発展」を目指すんじゃなくて、「スローな労働」みたいなものを推進していったほうが、時代にも合ってていいと思うんだが。
そういう普通な労働環境を整えようとせずに、「再チャレンジ」を無理強いしても、問題は根本的には解決しないだろう。
だから、仕事ができなくて何もすることがなく、ベッドに横になって将来の不安と戦ってる人も、「自己責任」なんていう政府の宣伝文句で自分を責めすぎずに、かわりに企業や国を責めてもいいと思う。
関連推薦図書:『生きさせろ!──難民化する若者たち』 雨宮処凛著、太田出版
2007年02月19日
銀行は利子を払え
この世界でも例のない「超低金利政策(あるいはゼロ金利政策)」に、誰も文句を言わないでいいのか?
もともとこの政策は、バブルの崩壊で破綻寸前になった金融、証券、ゼネコン、不動産業なんかの企業を守るために、90年代前半から取られたんだが、99年には預金利子が実質的にゼロになる「ゼロ金利政策」になった。去年ようやくゼロ金利は解除されたものの、相変わらずの超低金利(ほぼゼロ)政策を国は続けている。
これによる銀行の利益は、つまり本来、一般預金者のというか、主に家計の収入になるはずだったカネは、300兆円を超えてるそうだ。
バブルで失敗した企業の損失を、今も国民が負わされている、と。
そういえば、05年には、銀行が一方的に1000万円以上の元本を保障しなくなった「ペイオフ解禁」なんてのもあったが、怒らなくていいのか?
こういうのがまさに企業中心の政策であって、こういうことをしてるから、国民が貧しくなったんじゃないか?
こういった「改革」をやってきた小泉前首相が、国民に「人気があった」だけでなく、今でも「人気がある」というのは、驚くべきことだ。
“痛み”に耐えるのが好きなんだろうか。
で、今の首相も小泉改革を継承するとか言ってるんだが……。もういいって。
2007年02月14日
「共進化」という生き残り戦略
つまり、花は蜜という貴重な栄養素を提供して、ミツバチなどの訪花昆虫をおびき寄せる。ミツバチなどは花粉まみれになって蜜を集めて回ることで、花の受粉を助ける。これがここ1億年足らずの間により盛んに繰り返されていって、今地球上は花と昆虫であふれかえってるそうだ。
こういう互いに利益を与えあって、協力者の生存の機会を増やしあう互恵的な関係が、双方の種の繁栄のためには、最も持続的でマシな関係なのだ。
大体、こういう関係のありかたが「共進化」だと言える。
では、相手を滅ぼそうとしたり、戦ったりするやり方はどうか?
がん細胞やエイズ・ウィルスは、生物ではないけれども一例としてあげれば、その寄生している宿主をどんどん蝕んで繁殖していくが、ついには宿主を殺してしまうため、その時点で自分たちも死滅してしまう。
同時に、抗がん剤やワクチンといった、相手からの対抗戦略も誘発する。
「戦う」「滅ぼす」という片方が一方的に利益を得るような戦略は、結果的にあまり利口なやり方ではない。「共進化」とまではいかなくても、せめて「共生」したほうがマシなのだ。
さて。ヒトは、ここ“数百年”の間に地球上で大々的に繁殖した生物種のひとつだが、他の生物に対してどんな戦略を取ってきたのか?
どう見ても一方的に利を得る、「戦い、滅ぼす」戦略であって、だからこそ今になって「共生」なんてことが叫ばれてるんだろう。
ちなみに、ヒトという種のなかの関係、つまり「人間関係」においても、アメリカと第三世界とか、片側利益的な戦略ばかりが取られているようだ。もっと日常的な人間関係であっても、個人的な印象にすぎないが、「労使関係」みたいに、その傾向が強いのかもしれない。
こういう戦略を続けていれば、結果的にどうなるのかは目に見えている。
現実的には、「互いに恩恵を与え合う関係」だなんて、けったくそ悪いたわ言のようであって、そんなこと言ってたら生きてられない状況だったりもする。が、やはり理想はそれであることに変わりはないし、部分的にも不可能かというと、そうでもない。
互いに戦うことのデメリットは、疲れる、という形ですでに実感してるはずだし。
2007年02月10日
核の抑止力では平和にならない
米ソの冷戦を終わらせたのは、核による抑止力なんかではなく、ソ連・ゴルバチョフの平和外交と軍縮政策だったことを忘れてるんじゃないか?
第二次大戦後、90年頃まで、「北」側の世界は、米ソを筆頭とする「東西」の両陣営にわかれて、”冷戦”という戦争をやっていたんだった(日本も一応西側の一員だった。今でも、「南」の国々を第三世界と呼ぶのは「西」と「東」が各々第一、第二世界だったからでもある)。
で、両陣営は、この核(軍事力)による抑止力理論が横行したため、軍拡競争を続けなければならなくなってしまった。
だからと言って、冷戦時代が平和だったわけはなく、ベトナム戦争をはじめとする多くの“熱い”局地戦・代理戦争が起きていた。
アメリカは80年代には財政赤字に苦しみながらも、どんどん核兵器を増やさざるを得ないという、とても不毛な時代を送った。
結局、冷戦は平和的な外交によって、ようやく終わったのだ。
だから日本の政治家も、ゴルバチョフを見習って、平和的な外交を第一にやってほしいもんだ。話し合いで解決するなら、それに越したことはない。
核兵器を1個作るのにどれほどのカネがかかるか想像もつかないが、税金を兵器作りなんかに使うなと言いたい(核兵器ほど無駄なものがこの世にあるか?)。
そもそも、そんなカネない。
2007年02月07日
図書館を利用しよう
我々の日常生活は、資本主義経済というやつに深く深く侵食されてしまっていて、“楽しみ”なんて金で買わなきゃいけないような気がしている。
知的好奇心とかいうものを満たすために、電車に乗って街に出て、書店やCD屋をまわってくるのを趣味にしている人も多いだろう。
が、その回数を減らして、地域の図書館に行ってみるのはどうか?
確かにCDやビデオやDVDはそんなに品揃えがいいわけじゃない。雑誌もそれほどあるわけじゃないが、でもそこそこある。新聞もあるし、本については、書店より充実している。借りることしかできないが、そのほうがむしろ、資源のムダも省けていいかもしれない。
なによりも、タダだ。街中のように座るだけのために、茶代を払う必要もない。
こういった社会福祉施設は、我々の払った税金で運営されているんであって、基本的に書店やCD屋とはまったく別のテリトリーなのだ。税金の元を取るためには、ないCDは入荷するまでリクエストするくらいの気持ちで、最大限に利用したい。
そして図書館には、無料の法律相談(いじめ相談も含む)や各種教室、講演会、自然観察会みたいな(やや渋い)行政サービスの案内もかなりある(役所に行けば完璧に揃う)。
より多くの人が、こういった地元の行政サービスを最大限に利用して、ないものは要求していって、より充実させていくことは、この先重要だ。
今の段階でも、“楽しみ”に限らず、我々が生きるのに必要なサービスは、民間企業にゆだねられすぎてるのだ。我々も知らず知らずのうちに、企業・資本主義経済に食い物にされている(出版物や音楽の情報だと思って手にしているものが、単なる新商品の宣伝のチラシ同然だったりする)。
ある程度は、消費自体が生きがいなんてことになってるかもしれない。
逆に、行政サービスが生活の隅々まで行きわたったら、それは社会主義国家みたいでもあるが、実際に今は、少し社会主義国家(あるいは福祉国家)化しなきゃいけないんだと思う。
まあ、そんなに大げさなことでなくても、外出する口実くらいの感じで行くのには、図書館は絶好なんじゃないか。
自分で本を売る商売してて、こう言うのもなんだが。
2007年02月03日
「翼を持つこと」と「根を持つこと」
見田宗介という社会学者の持論でもあるが、人は「翼を持つこと」と「根を持つこと」というふたつの根本的に矛盾する欲求を持っている。
自分なりに解釈すると、前者は束縛から逃れて自由になること、後者は何らかの共同体に帰属して安心することだ。
人、特に近代人は、地縁・血縁関係から離れて自由を求めるが、同時に孤立し、不安定で不安になる経験を多かれ少なかれ持ってきた。
そこで何らかの共同体に帰属先を求めると、今度はある程度、自分個人の自由は放棄しなければならない(ここで、国家などの権威や、「大勢の人たち」の画一性に自分を投げ出す、つまり「みんなと同じ」になる場合、E.フロムはそれを“自由からの逃走“と呼んだ。これは今、この国で起きている現象なのかもしれない)。
民族や国家といった特殊な括りが、対外的(あるいは排他的)な力を持つことができるのは、個人が自らをそこに投げ出し、ある程度犠牲になるからとも言えるのだ。
個人は「そこからはみ出さない」という足かせと引き換えにしか、孤独孤立からくる不安を解消できない。
ここに根本的な矛盾がある。
では、その矛盾を乗り越える方法はないのか? つまり自由でもあり、安心もできる帰属先を持つことはできるか? 見田氏はこう言う。
もし、その帰属先というかアイデンティティの置き所を、この自然界全体に置いたらどうか? それは、どんな部分的・観念的な括りでもないので、そこからはみ出す心配はないし、自己犠牲もいらいないし、排他性も生まない。
我々個人の実体であるこの身体は、その一部分なのだから、そこからはみ出すことなんか、どうせできないのだ。
まあ、あまりうまくも言えないんだが。詳しくは見田氏が真木悠介名義で書いた『気流の鳴る音』という本を参照してほしい。
でも、そういう帰属意識は、気分的に楽になれるのでいいし、別に珍しいことでもなく、むしろ今時では“ありふれている“と言えるほどメジャーなものになってきていると思う。