2007年03月26日

政治的無力感を超えて

自民党がムキになって憲法“改正”の手続きである「国民投票法」を成立させようとしてるのが、相変わらず嫌だ。
すでに安倍内閣の支持率も不支持率を下回ってるんだし、誰もこんなものを「最重要法案」「緊急事項」なんて思ってないのに。じゃあ、一体誰のためにこんなこと強引にやってるのかというと、結局自民党のためなんだと思う。

自民党は1955年の結党時に、すでに「憲法改正」と「国情に相応した自衛軍備を整え」ることを謳っている。それ以来、事あるごとに「今こそ憲法改正が必要だ!」と叫び続けてきたのだ(それでも、憲法改正を自分の公約にまで掲げた首相は安倍だけだが)。
自民党の言い分には今も昔も大差はないが、これまで改正手続きの国民投票法すらなくてよかったのは、国民がそんなプロパガンダに乗せられずにすんできたからだ。

今の首相や自民党は、別に国民にとって重要な事をやってるわけじゃなく、自分たちの「念願」を少しでも叶えておきたいだけなんじゃないのか? 国民投票法ができれば、憲法“改正”は、初めて現実的な一歩を踏み出したことになるんだし。

今のこの国の政治は、自分が今までの人生で経験したなかでも最悪だ(特に、2005年の小泉圧勝選挙あたりから去年までがひどかった)。もう、国民のためにもならない政策に、国民が普通に反対できなくなってしまっている。
政治的無力感に陥ってしまっても当然なのかもしれない。
が、もう無力だろうがなんだろうが、あえて嫌なものは嫌だと言わないと、単にもっともっと悪くなるだけのような気もする。
ので、自分は言ってみた。
ああ、国民投票法は嫌だ。
 
posted by 鶴見済 at 19:34| 人間界の政治 | 更新情報をチェックする

2007年03月21日

歌う、踊る快感

gendaisyakai.jpg単に、歌ったり踊ったりする気持ちよさには、何か特別なものがある。

まず基本的に、一人でもでき、他人の存在を前提にしない。これによって誰かがひとついい思いをしても、別の誰かがひとつ損をするわけじゃない。
それに比べて、競争的、敵対的、あるいはいじめ的な喜びというのは、必ず誰かの犠牲の上に成り立っているもので、全員がそれで喜ぶなんてことはできないし、長くは続かない。
そして、他人のマイナスを伴わない喜びというのは、人間全員がやっていても、人間界の貧富の差や敵対といった問題を生まないはずなのだ。

次に、元手がいらない。つまり、物を買ったりするわけではないので、なんらかの資源や財産の浪費の上に成り立っている楽しみ方でもない。これを人間界の全員が続けていても、他の生き物や自然界からの収奪も一向に進まないはずだ。基本的には。

そして、こういうことは単に本人が気持ちいいからやるんであって、そうすることで子孫を残せたり腹の足しになったりするわけではない。なんのためにこんな機能が体に備わってるのかわからないが、純粋に気持ちよくなければ、古今東西、老若男女を問わず、ヒトはこんなことやってこなかっただろう。

つまりこういう楽しみ方というのは、個人の問題も、人間界の問題も、自然界の問題も一挙に解決に導くというか、少なくとも問題を悪化させるものではない。そういうところが特別なのだ。大げさに言えば。ヒトはそういう、言わば「自立的」な楽しみ方に向かっていくのがいい。
まあ、別に「歌う」「踊る」に限らなくても、「春の天気のいい日に公園を散歩する」とか、色々あるはずだから、どうせなら競争なんかするよりは、そっちを追求していきたいものだ。
もちろん、そんなことばっかりやってても生きてはいけないわけだけれども。

(ちなみに今回は、見田宗介氏の『現代社会の理論』という本を参考にした。)

posted by 鶴見済 at 11:07| 自然界 | 更新情報をチェックする

2007年03月16日

東京オリンピックなんかやらなくていい

石原慎太郎都知事が、今時、オリンピックをよりによって東京でやろうと張り切ってるが。
いったい何を考えてるのか……。

オリンピックにかかるカネは、石原自身の去年6月の発表によると、大会運営費3千億円、施設整備費5千億円(うち都の負担は5百億円)だそうだが、実際には道路や空港、湾岸開発なんかのインフラにかかるカネも含めると、総額7兆円を超えるとも言われる。7兆円……。
で、東京都は毎年1千億円を積み立てる計画まで発表してるのだ。
そんなカネ、どこにあるんだか知らないが、あるなら福祉にまわすのが当然だろう。この格差・貧困問題でのっぴきならない状況においては。

大体、東京オリンピックは高度経済成長の象徴みたいなものとして、1964年に行われたが、東京で一発ドカーンとオリンピックをやろうなんて発想自体が、高度成長期的でもう古いのだ。

「昨日よりも今日、今日よりも明日はより発展してるべきだ」というのが経済成長主義の思想だけれども、そんなのはもう70年代から“先進”諸国でも否定的に見られてる。
それで、「作っては壊す」を繰り返すような、建設業界がもうかるようなことはもうやめて、省エネ、リサイクル、エコロジーを推進していく時代になったんじゃなかったのか。
今はむしろ、「昨日も今日も明日も変わりばえのしない日常を、どうやりくりして生きていくか」が課題だったんじゃないのか?

「オリンピックには夢がある」とかなんとか石原都知事は言ったようだが、そんなものをやってもやらなくても、「夢」なんてものはない。
posted by 鶴見済 at 13:58| 人間界の経済 | 更新情報をチェックする

2007年03月11日

選挙には行こう

ベネズエラの民衆デモ.jpg最終的に一握りの“競争好き”の人しか得をしないような経済政策を政府が取る、というのはどこかおかしい。
いわゆる“ネオリベラリズム(新自由主義)”経済と、貧富の格差の問題なんだが。
民主主義社会である以上、そういう政策は多数決で決まってるはずだが、それによって大多数の人が損をするだなんて、民主主義がちゃんと機能していないんじゃないか? ちゃんと知らされてないというか。

例えば──。
“アメリカの裏庭”と呼ばれてしまったラテンアメリカの国々は、この“ネオリベラリズム”の実験場となってしまい、市場の自由競争化、海外資本の導入、公共事業の民営化なんかが進められた結果、富は海外に流れ出し、国内の貧富の差が極端になった。

南米大陸の北にあるベネズエラでは、人口の1割にも満たない人が富を独占してしまい、首都カラカスでは6割を越える人々がスラムの不法住宅に住むようになった。
一応民主主義の体裁は取っていたこの国で、こういうことも起きるということに驚かされる。
そこに登場したのが、今や世界の反米の星、ウゴ・チャベス大統領で、社会福祉政策を推し進めて(南米はこういう方向に向かっている)、貧困層から絶大な支持を集めている。
そして、それまでの政治を「偽りの民主主義」と呼んで批判してるのだ。

そして、日本でこのネオリベラリズムの政策を大々的に推し進めたのが小泉前首相であり、今もそれは続いている。
日本の格差の拡大は、すでにある程度実証済みのこととも言える。

あるいはこれも、別の形の「偽りの民主主義」なのかもしれない。

こうなったら、どの政策が自分の得になるのか考えたうえで、選挙に行って、投票しないとヤバイかもしれない。
ちゃんと民主主義をやれば、ベネズエラのようにうまくいく可能性もある。

posted by 鶴見済 at 11:43| 人間界の政治 | 更新情報をチェックする

2007年03月05日

「神」の代わりとしての「自然科学」

“神“を信じることができなくなってしまったヒト、特に我々近代人には、それに代わるものがなくていいのか?という疑問がないこともない。

ヒトは太古から、どんな人種であれ宗教や神話を作って、「自分たちがどこから来てどこへ行くのか」「この世界はどのように始まり、どういう構造をしているのか」「ヒトはどうあるべきか」といった疑問に答えようとしてきた。
こういう“真理”とか“善悪の基準”とかがわからないままではいられないらしい。

例えば、人間界で最も有名な神話であろう『旧約聖書』の冒頭の「創世記」には、神は、6日間で世界を創り上げ、7日目に休んだとか、ヒトにすべてを支配させるように言ったとか書いてある。
かなり傲慢な人間中心主義的世界観だが、こういった物語はどんな文化にも必ずあって(「大きな物語」とかいうもののなかでも最大のものだ)、信じられ、その文化や共同体を成り立たせてきた。

こういうものが信じられない場合ヒトは、つきつめれば「虚無主義」に立たざるを得なくなるんじゃないだろうか?(全然他人事ではないが、それでも、もはや信じられないものに無理やり落としどころを見出すよりは、よほどマシだと思う)。

そして、16・17世紀頃からヨーロッパに台頭して、結果的に、この宗教に取って代わることになったのが、自然界に関する学問研究である「自然科学」だ。
自然科学は、“万有引力の法則”だの“進化論”だの“相対性理論”だの、“量子力学”だの“分子生物学”だの……を見出したり発展させたりしながら、世界中に広まっている(自分もその常識の中にいるんだと思う)。
そして、「我々の来し方、行く末、世界の構造」などについては、不完全ながらも、宗教・神話よりは上手く説明してしまった。

結局、「宗教や神話に代わるもの」というのは、この自然科学以外にはないんじゃないか。
「科学信仰」と言えば、“科学技術”や“応用科学”の進歩を妄信する態度を指しがちだが、そういうのはむしろもういい。
それよりも“自然科学”による全体的な世界観みたいなものを、宗教・神話の代わりになれるように、というか、自分の生き方やヒト全体のあり方の指針、あるいは善悪の基準になれるように、ちゃんと総合化したほうがいいんじゃないか?

自然科学は、無味乾燥で物語でもないが、そうなれるものだと思う。
そういう形で自然界に着地していくべきだというか、なんと言うか。
しかし、やけに大げさな話になった。そして上手く言えない。

posted by 鶴見済 at 23:27| 自然界 | 更新情報をチェックする