2007年07月28日

明日は社民党に入れようかと思う

明日の参議院選挙の比例代表区は、社民党に入れようかと思っている。

今回は何よりも、自民党の議席を大幅に減らすことが先決だが、その「反自民」の票が下馬評どおりに、みんな民主党に行ってしまうのもまたマズイと思う。似たり寄ったりのふたつの政党しかなくなるという「保守二大政党制」を招いてしまうからだ。

保守二大政党制と言えばアメリカが典型的で、二大政党以外の議員がほとんどいない状態なんだが、その共和党と民主党は「財界(経済界)」というひとつの勢力のふたつの派閥に過ぎない、と言われる。つまり実質的には財界の一党独裁体制みたいなものなのだ。
日本の自民党と民主党はどうかというと、やはりそういう側面があることは否めない。つまり、小選挙区制度のもとで、どんどんアメリカのような保守二大政党化が進んでるわけだ。
そして、国会での絶対多数派が自分たちに都合が悪いように選挙制度を改めるわけがないのだから、一度そうなったら元には戻りそうもない。

だから自分としては、社民党や共産党のような、「財界の利権」(や国家主義や憲法“改正”)に真っ向から反対してくれる政党があってくれないと困るんだが。
「あなたの生活より大事な物はない」という民主党のコピーには大賛成だが、だったらなぜ、「国民の生活」のために存在してきたような政党に人気が集まらないのか謎だ。
(それでも、とりあえずは、自民党が負けてくれるなら贅沢は言わないが。)

posted by 鶴見済 at 21:40| 人間界の政治 | 更新情報をチェックする

2007年07月22日

カネが稼げない人間には価値がないのか?

この社会では、働いてカネが稼げない人(特に男)はダメであるという価値観がまかり通ってるが、そんなことでいいのか?

資本主義経済のダメなところは、直接生産やカネに結びつかないことを、時間の無駄とか価値の低いことと見なすことだ。例えば、掃除・洗濯なんかの家事、育児、家族の介護、家の修理……といった「再生産労働」と呼ばれるもの。
これらは昔から今に至るまで不可欠な仕事なのに、「経済活動」に換算されないというだけで、その仕事だけでなくそれをやっている人まで軽んじられている。
(これらも専門の職業にしてカネを取るようになると、地味ながらも「ちゃんとした仕事をしている」と見なされるところがまたやっかいで、なんでもかんでもカネで専門の人に任せる「分業化」みたいな傾向を生んでしまう。)

こうして、生産やカネのやり取りといった経済活動に偏った社会ができあがる。
こうした価値観は、実は我々のなかにも深く根ざしてしまっているはずで、「片づけ」がこんなに面倒臭いのも、ある程度はそれが「無駄なこと」のように思えてるからかもしれない。

しかし、当然のことながら、我々の身体も自然界も、半分はこうした「元に戻す作業」があるからこそ、うまく循環しながらやっていけているのだ。生物界における菌類の「分解・還元」という役割がまさにそれだ(そして菌類もまた、生物学において”日陰者”扱いされてきた)。
自然界がそうであるなら、その一部分でしかない人間界だって、ましてやモノなどあり余っている今の時代には、「再生産労働」のほうをより重視してもいいくらいだろう。

だから、外に出てカネを稼いでくるのが苦手で、家で家事や介護をするほうが得意な人(特に男)も、自分は何もできない/していないと自己否定的になる必要はない(あまり他人事じゃない)。
むしろ今は、男ももっと家事をやらなきゃいけないはずだ。少なくとも、株を安く買って高く売るなんていう、もはや生産ですらない、どうしようもない経済活動なんかより、家事のほうがよほど大事だ、本来は。

posted by 鶴見済 at 19:30| 人間界の経済 | 更新情報をチェックする

2007年07月12日

資本主義の「精神」が嫌だ

.jpg 「時は貨幣であるということを忘れてはいけない。一日の労働で10シリングもうけられる者が散歩のためだとか室内で懶惰にすごすために半日費やすとすれば、たとい娯楽のためには6ペンスしか支払わなかったとしても、それだけを勘定に入れるべきではなく、そのほかにもなお5シリングの貨幣を支出、というよりは放棄したのだということを考えなければならない。」

これが大社会学者マックス・ウェーバーが“資本主義の精神”と呼んだベンジャミン・フランクリンの人生訓だ。他にも、
「信用は貨幣であることを忘れてはいけない。」
「貨幣は生来繁殖力と結実力とをもつものであることを忘れてはいけない。」
「勤勉と質素とを別にすれば、すべての仕事で時間の正確と公平を守ることほど、青年が世の中で成功するために必要なものはない。」
等々、色々ある。それにしても、なんと嫌な精神であることか。
フランクリンはアメリカ独立宣言の起草者の一人で、「代表的アメリカ人」とまで呼ばれる人物だが、これを見ればある意味でそれもうなずける。

ウェーバーによれば、資本主義は近代以前にも世界のいたるところにあった。が、近代(つまり今の)資本主義は、こういう生活上の倫理観と結びついているところが特別なのだ。
近代資本主義は、フランクリン以降も今に至るまで拡大を続けてきたが、ならばこの「精神」だって同じように拡大していてもおかしくない。それどころかこのマネーゲームの時代には、より切実な人生訓になってるんじゃないか? 特にビジネスマンみたいな人にとっては。

今の行きすぎた資本主義は(特に環境破壊の面から)当然見直されるべきなんだが、自分が一番嫌なのはこの「精神」のほうかもしれない。
反資本主義と言うと、いきなり「社会主義」などとも呼ばれかねない時勢だが(それでも今は多少社会主義のほうに揺り戻されるのが妥当だと思うが)、散歩・懶惰(らんだ≒怠惰)主義だって十分反資本主義なのだと言いたい。
もちろん懶惰ばっかりでは生きていけないことも忘れてはいけない、わけだが。

参考:
M・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、岩波文庫
posted by 鶴見済 at 23:55| 人間界の経済 | 更新情報をチェックする