2014年05月14日

宮台真司による捏造記事を訂正する

宮台真司が今年出した『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』という本のなかで、自分(鶴見済)の著作活動を概説するかのような記事を書いているが、それがとんでもない中傷的な捏造ばかりなのを発見した。ここにそれを指摘し、一刻も早い訂正を要求する(引用は同書p109から)。
その捏造を一言で言えば、こちらを「まるでオウム真理教のように」見せようと躍起になっている、と言えるが、問題はなぜ彼がそうするのか、だ。それについても後述している。
また、なぜ自分が90年代を通して「同じことの繰り返しの日常」論を展開していたのかも最後に書いている。
ではやや長くなるが、まずこの文から見てみよう。

●「1980年代後半から始まる鶴見済の著作活動は、現実リセットのツールとして、最初はハルマゲドンを称揚し…」

ここまで醜い捏造が訂正されずに掲載されているのだから、他の記述の信憑性も推して知るべしだ。
自分が著作活動を始めたのは90年代からだ。辞書によれば「称揚:ほめたたえること」だ。かつてハルマゲドンを褒め称えたのなら、誰もが「怪しいオウムのような人物」と思うだろう。ただし93年の第一作のなかで「ハルマゲドンなどない」とわざわざ書いているのだから、褒め称えるはずがない。

●「(鶴見は)「現実」は本当にリセット不可能なのか、と問います。鶴見は1996年に『人格改造マニュアル』において、僕の<終わりなき日常>という概念を「ハルマゲドンなき世界」と言い換えた上で、「ハルマゲドンがなくてもドラッグがあればOK!」と宣言しました。」

まず驚かねばならないのは、『人格改造マニュアル』には「ハルマゲドン」に言及している箇所などないということだ。つまり、こんなことはまったく書かれていない。これほど間違ったことを書かれたのは、これまでにも経験がない。
「〜と問います」だって??? 「現実はリセット不可能なのか」などという問いは立てたこともないし、散々出てくる「現実のリセット」などという言葉は使ったこともない。現実リセットどころか、日常を楽に生きるために心の持ちようを変えてみようと提唱していたのだ。

「僕の<終わりなき日常>という概念を「ハルマゲドンなき世界」と言い換えた」などという馬鹿げた解釈はどこから来るのだろう。「ハルマゲドンなどない」「延々と同じ日常が続く」と書いたのは93年、この男がサリン事件以降に「終わりなき日常」云々と言い出す前だ。
「終わりなき日常」についてまた後に述べる。

『人格改造マニュアル』はドラッグについて書かれているのはごく一部(二種類のみ)で、精神医療に用いられる方法を中心に紹介し、心のセルフ・コントロールを勧めている。自分の内面を変えて、現実に適応しようと提唱した本だ。「現実のリセット」などとは正反対の趣旨だ。
前書きの一行目にはこう明記している。
本書は、自殺もせずになんとか楽に生きていくための実用書である。

●「「オウムの失敗」を踏まえた上で、鶴見済は、以下のように言います。昔は戦争や災害による「現実のリセット」の可能性を夢見ることができました。ところが戦争や災害による「現実のリセット」が不可能になったので、自分で「ハルマゲドン」をもたらすというオウム真理教の「ハルマゲドン幻想」が出現しました。ところが「オウムの失敗」で「ハルマゲドンなき世界」が自明になったので、「ハルマゲドン」と等価な現実リセットのツールとして、自殺とドラッグが浮上するのだ、と」。

「〜出現しました」などとも分析していないのだが、いちいち細かいところまでは言っていられない。
『自殺マニュアル』はもちろんオウム事件のはるか前に出たもので、『人格改造〜』は93年の段階で出版企画が決まっている。どちらもオウムの失敗を踏まえたものなどではない。
それにしても、この短い文のなかだけでも「ハルマゲドン」という言葉が4度も、「現実リセット」が3度も出てくるのは、一体何なのか? ここにこの男の意図を読み取ることができる。『完全自殺マニュアル』前書きに90年代初頭の東西冷戦終了後の社会状況を書いたのだが、そこにたまたま一言「ハルマゲドンなどない」と書いたがために、「鶴見=ハルマゲドン」という捏造を生むスキを与えてしまったようだ。

●「1980年代後半から始まる鶴見済の著作活動は、現実リセットのツールとして、最初はハルマゲドンを称揚し、次に「自殺」を称揚し、その次に「ドラッグ」を称揚し、そして最後に「ダンス(レイヴ)」を称揚しました」。

すでに書いたとおり、このくだりには呆れ返る。
『完全自殺マニュアル』の前書きの最後には、ある強烈な薬物を金属のカプセルのネックレスに入れて持ち歩いているという知人の例え話から、次のように書いている。
「(その彼は)『イザとなったらこれ飲んで死んじゃえばいいんだから』って言って、定職になんか就かないでブラブラ気楽に暮らしている。この本がその金属のカプセルみたいなものになればいい。

そして後書きには、「本当の狙い」としてこう明記している。
こういう本を書こうと思ったもともとの理由は、…自殺する人は心の弱い人なんてことが平然と言われていることにイヤ気がさしたからってだけの話だ。『強く生きろ』なんてことが平然と言われている世の中は、閉塞してて息苦しい。息苦しくて生き苦しい。だからこういう本を流通させて、『イザとなったら死んじゃえばいい』っていう選択肢を作って、閉塞してどん詰まりの世の中に風穴を開けて、ちょっとは生きやすくしよう、ってのが本当の狙いだ。別に『みんな自殺しろ!』なんてつまらないことを言ってるわけじゃない。

「世の中を生きやすくしたい」という主張は、「現実リセット」「ハルマゲドン」などとは正反対のものだ。
要するにすべては「生きづらさを和らげるため」なのだ。彼が「現実リセット」「ハルマゲドン」と書くところを、「生きづらさの緩和」と書けば済むことだ。すでに述べたとおり、『自殺マニュアル』も『人格改造〜』も、日常を楽に生きるために心の持ちようを変えることを訴えていた。
そもそも自殺を褒め称えた本がベストセラーになれば、自殺者が増えてもよさそうなものだが、逆に減ったのはなぜなのか?(註1)

「その次にドラッグを称揚し」については、「人格改造を称揚し」と言うのが当たり前だろう。自分が『自殺マニュアル』に続いて書き下ろしたのは人格改造の本であり(元のタイトルは「性格改造マニュアル」だった)、ドラッグを扱っているのはそのごく一部だ。
誰であれ、本人がこういう主旨だと言っている部分をあえて無視し、小さな部分を大きく取上げ、それが真の意図であるかのように書くのは、立派な捏造だと言える。
また、「主旨」には触れずに、「ハルマゲドン」について言った部分ばかり取り上げるという彼の手口にも以前から呆れていた。
宮台真司の過去の言動なら自分も色々と知っているが、それらのいくつかを拾い上げて、まるでオウムのような「宮台の概説」を作り上げることも可能だろう。そもそも彼自身がドラッグに肯定的だったではないか。

そして今も自分は著作活動をしているが、「最後に」か。こんな失礼な事実誤認を山ほどやらかして抗議を受けたら、ライターならおしまいか、相当の謝罪を重ねねばらないだろう。


●さて問題は、なぜ彼がここまでこちらの言論活動を、「まるでオウム真理教のように」見せようと躍起になっているのか、だ。

まず何よりも、90年代の彼がブルセラ、援助交際、デートクラブ等々の性風俗を全肯定し推進していた頃、彼の独自の分析によれば、日本はなんと「ハルマゲドンの時代」にあったそうなのだ。従って、ハルマゲドン、現実リセットなどという「オウム的なもの」にかすめ取られた同時代人がたくさん出たことにしなければならない。
ではなぜ「ハルマゲドンの時代」でなければならないのか? それは、自らのブルセラ・援助交際など性風俗の推進はそのなかにあって、「それに比べればマシだった」と強調したいがためだと思われる。実際にこの本のなかで、そのような言い訳と自己の位置づけが打ち出されている(しかしそもそも性風俗化することのどこが「日常を生きる知恵」なのか?)。
そのためには鶴見の言っていたことを、その代表例として徹底して「オウム的」に仕立て上げる必要があったのだろう。そう思えば、「鶴見は80年代後半にはハルマゲドンを称揚していた」というでっち上げを行わねばならなかった理由もわかるというものだ。

また「終わりなき日常」についても言わねばならない。彼が95年に言いだした「終わりなき日常」云々といったことは、自分はそれ以前の『自殺マニュアル』の前書きに、「身ぶるいするほど恐ろしい日常生活」(三島由紀夫『仮面の告白』より)や、「延々と続く同じことのくり返し」といった表現で書いている。
また翌94年の『無気力製造工場』という本に収録したエッセー、書評、対談等々のなかでも、「延々と続く同じことの繰り返しの日常」について散々言及している。つまりこれが『自殺マニュアル』刊行後の自分の基本主張だったのだ。彼が『終わりなき日常を生きろ』という本を出した時、自分の本を読んでいる人なら、それは元々誰が主張していることなのか明らかだったはずだ。けれどもそういうことを言うのは趣味ではないので、あえて言わずにここまで放っておいた(彼が後に言い出した「意味から強度へ」についても似た感覚を持っている)。
自分の90年代の諸著作の基本姿勢は、「延々と続く同じことの繰り返し」の「身ぶるいするほど恐ろしい」日常生活をどうやって楽に生きるか、というテーマで書いていたものだ。それは著作の主旨を普通に受け止めていればわかる。ドラッグでさえ微量を摂取して日常生活を乗り切るために使おうと提唱したほどだ。安全のために「微量」の量まで示した(註2)。
しかしそれを認めてしまえば、彼が言い出した日常論は、すでにある鶴見の日常論と区別がつかない。そのためこれもまた鶴見の日常論を「オウム的なもの」とすることで、自説はそれとは違う独自のものだと強調したかったからではないか。

●さて、このような無意味な議論にも意味を持たせるために、最後に、自分がなぜその頃「延々と続く同じことの繰り返しの日常」という考えを強調していたのかも書いておこう。
ひとつにはもちろん、当時の米ソの冷戦が終わり、「全面核戦争の危機」が去ったという時代状況がある。今からでは想像が難しいだろうが、それ以前にはボタンひとつ押し間違えれば、世界が大惨事に巻き込まれるという感覚があったのだ。
けれどもそれより大きな理由は、自分が学生時代から歴史学者・木村尚三郎らが提唱していた「(脱成長ではなく)低成長時代論」に親しんでいたからだ。自分は木村のゼミにまで出ていた。
日本の高度成長に翳りが見えたことを受けて、70年代から木村らは低成長時代論を掲げ、「ヨーロッパも日本も、農業革命期と産業革命から戦後のオイルショック頃までの二度の高度成長期以外は、毎日変わりばえのしない日常を生きる低成長の時代が普通だった」(大意)と論じていた。また「そうした時期には大きな社会の劇的変化よりも、日常の細部や内面に目が行く」(大意)とも語っていた(註3)。
今にして思えば、現在の脱成長論の先取りだった言える。自分は学生時代に木村の講義を受け、その理論に共感し、各著書の前書きなど至るところでその説を応用して書いている。
そしてこの低成長時代論から得たものは、「生きづらさから逃れて楽になる」という趣旨と密接に関連しながら、現在の自分の主張のなかにまで脈々と生きている。

あまりこういうことは言いたくないのだが、彼のような輩が出てくるのではっきり書いておかねばならない。
「イザとなったら自殺という手もあると思って」も「心のコントロール」も、10代後半から20代にかけて、心の病に苦しみつつ日常を少しでも楽に生きるために、自分が取ってきた手段だ。そういう経験のない人には、残念ながらそれは理解できないのかもしれない。
それにも関わらず彼の「鶴見の概説」には「生きづらさ」などということは一切書かれず、山ほどの「ハルマゲドン」と「現実リセット」が出てくる。これが事実を捻じ曲げていないと言えるだろうか。

最後に言っておきたいが、宮台さん、こちらにも色々言いたいことはあるのだが、少なくとも90年代にごく近いところにいたことは確かだ。その相手をことさらひどいものとすることで、自らを正当化するなんてことはやめようじゃないか。それは必ず自らに返ってくる。そして早速訂正してほしい。


(註1)自殺者数の推移(警察庁「自殺統計」より内閣府作成)。本が出た年とその翌年、自殺者が連続して減ったのだから、自殺防止に貢献したと言われてもいいくらいだ。
(註2)当時は、出回りだしたドラッグを、分量をはじめ、やり方もわからないまま摂取してしまう人が続出したという際どい問題があったため、誤用を防ぐためにという意図もあった。もちろん副作用についても詳細に書いている。
(註3)『家族の時代─ヨーロッパと日本─』(木村尚三郎、1985)など。
posted by 鶴見済 at 18:36| 日記 | 更新情報をチェックする

2014年05月02日

都市コモンズを取り戻すために 『反乱する都市』書評

1310_harvey.jpg都市全体をコモンズと捉える視点が新鮮だった。そして私有化され奪われたコモンズは、取り返さねばならない、と。
それにしても、産業革命期のイギリスから、現代の中国をはじめとする「新興国」にいたるまで、なぜこうも同じように人は農村から都市へ流出して工業発展の下地作りをするのか? この流れは絶対なのか? ローカル化など起きないのか? その当然の結果としての世界的なスラムの拡大をどうすればいいか? 色々考えさせられる。分厚くて難しいが、面白い。

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人類は現在、急激な都市化の真っ只中にある。国連の予測では、二〇三〇年には全人類の六割が都市に住んでいることになる。都市化は特にアジアをはじめとする「南」の国々において顕著で、人口一〇〇〇万人以上のメガシティが続々と生まれている。ローカル化が叫ばれてはいるものの、これが現状だ。

本書では都市が作られていくこと自体を、資本の発展過程と見なして、その観点から世界の都市における反乱を概観している。著者は、マルクス主義を下敷きにした都市論や新自由主義批判の論客であるデヴィッド・ハーヴェイである。
そもそも金融から建設業に資金が流れることによって都市空間は拡大し、それが資本主義のさらなる発展の基礎となる。それゆえに都市には階級が、つまり少数の「占有する者」と「される者」が生まれる。日本でも都市の再開発は、野宿者の排除や古い商店街の立ち退き問題と不可分であることを思い起こさせる。世界の巨大都市におけるスラムも爆発的に拡大していて、人類の格差の象徴となっているのだ。
また著者は、一般的には自然環境に対して用いられる「コモンズ」という概念を都市にも当てはめる。確かに都市は、誰もが自由にアクセスできる共有物であるべきだが、ゲーテッドコミュニティに代表されるように、占有化の悲劇に苛まれている。こうして「都市への権利」を求める闘争が起きる。著者はその最新型を、カイロのタハリール広場、マドリッドのソル広場、ニューヨークのズコッティ公園などでの反乱に見る。これらは都市における平等を求める、反資本主義的な闘争でもある。著者はこうした都市革命の重要性を強調する。

まったくその通りだ、しかし、と思う。都市における平等は必要不可欠だが、仮にそれが達成されたとしても、やはり人類は都市への流入をやめないのだろうか? それでは根本的な解決にはならないのではないか? どこかの時点で人類が地方に分散しはじめることこそ、真に革命的な出来事であるように思える。
(『オルタ』2013年7月)
posted by 鶴見済 at 17:49| レヴュー | 更新情報をチェックする