2017年08月27日

金なし生活者スエロと「労働と消費」の人生

スエロ.png『スエロは洞窟で暮らすことにした』という本について以前に記事を書いた。
スエロはアメリカのユタ州で一切お金を使わずに、洞窟のなかで暮らしている。彼はお金が生み出す様々な不安や不正と決別するために、お金を手放したのだが、彼ほどではなくてもお金に依存した生き方に疑問を持つ人は多いだろう。

お金を払ってほとんどのことを人にやってもらい、その分働いてお金を稼ぐこと、つまり「労働と消費」が我々の生の営みになっている。
労働時間と消費がどちらも減っているのだから、こうした人生への見直しが進んでいるとも見れる。ただしお金への依存が進んでいる側面もあるので、簡単には言えない。
「少労働、少消費社会」を目指したい。
以下は『scripta』という雑誌に2014年の夏に書いた記事。

*******************************************
自分にも多少身に覚えがあるのだが、なるべくお金に頼らずに生きるのは決して楽なことではない。野菜を育てるのも、飲食店で食べるのをやめて弁当を持参するのも、物をなるべく買わずにどこかで調達してくるのも、どれも面倒だ。お金とは本来生活を便利にするための道具だったのだろう。けれども、何もかもお金任せにせず、自分の手でやってみたほうが「生きることへの興味」が湧いてくるように思える。賃労働と消費の生活を続けていれば、食べていくことはできるかもしれないが、肝心の「生きることへの興味」がなくなってしまうのではないか。思えば、自分が賃労働生活から降りてフリーランスになったのも、それを恐れたからだ。

とは言っても、多少お金を使わないようにするだけでも相当面倒になるのだから、一切お金を使わない生活がどれほどかは想像を絶する。それでもお金を使わずに暮らしている人はいる。イギリスで二半年以上もお金を使わずに生活する実験をしたことで知られるマーク・ボイルの『ぼくはお金を使わずに生きることにした』(紀伊國屋書店)によると、彼が見つけたお金を使わないで暮らしている人はたったの二人。一人は留守宅のハウスシッターやバーター取引で暮らしているドイツの女性・シュヴェルマー、そしてもう一人がここに紹介するアメリカの男性・スエロだ。

そのスエロの伝記とも言える『スエロは洞窟で暮らすことにした』によれば、彼が住んでいるのはアメリカ西部ユタ州・モアブの洞窟。食べるのは捨てられている食品や野生のもので、人に招かれてごちそうになることもある。衣類もゴミのなかから調達し、移動には自転車やヒッチハイクを利用する。こうして彼の金なし生活は十数年にも及んでいる。もちろんゴミを漁っているだけではない。彼は図書館のコンピュータで自分のウェブサイトも作っているし、ボランティアで様々な仕事もしている。その生活が楽だとは到底言えないが、普通に賃労働をしている人よりも充実しているかもしれない。

この本にはお金を使わずに生きる方法が詳しく書かれているし、金融経済の問題や食料の配給など様々なオルタナティブな活動についてもわかりやすくまとめられている。けれども、スエロの旧友でもある著者が関心を持ったのは、どうやら彼の金なし生活そのものではない。膨大なページを彼の遍歴の記述に費やしているのだ。クリスチャンとしての生い立ちや自殺未遂。様々な支援・慈善団体を渡り歩いては、偽善に直面して離れることの繰り返し。平和部隊として赴いた南米でもインドの聖地でも、やはり幻滅を味わう。ほとんどの人がそうしているように、多少の偽りや矛盾など仕方がないと見過ごすことができれば楽なのだが、彼にはそれができない。
こうした遍歴のうちに、「お金に動機づけられた物事はすべて汚れている」と考えるようになった彼は、ついにお金を手放す。「どこにいようとも、そこが私の家」というのが彼の行き着いた思想だ。そして、ここでそのさすらいもほぼ終わったのだった。

もし私有という概念がなければ、あらゆる場所は皆の家だ。人間以外の生き物は皆、そのように感じているだろうし、前近代社会の人々にも多かれ少なかれそのような感覚はあっただろう。私有や売買が行き渡った近代以降の人間、つまり我々の価値観のほうがおかしいとも言える。そのなかで一人異を唱えるスエロは、地球上の生物圏全般を眺めてみても、人間の歴史を振り返ってみても、マジョリティの側にいるのだ。かつての社会では贈与、共有、相互扶助といった様々なつながりは、生の営みそのものだった。スエロは、そんな生き物としての本来の生き方を追求しているとも言える。
お金を手放しはしなかったものの、人生を深く真剣に生きるためにやっかいな森での自給生活を始めたH.D.ソローを思い出す。本気で生きようとすればするほど人は、面倒な道に足を踏み入れることになるらしい。

著者が最後に引きあいに出すのは、カミュの『シーシュポスの神話』だ。シーシュポスは神に逆らったために、岩を山の頂上まで持ち上げることを永遠に繰り返す罰を受ける。けれどもカミュによれば、この世の不条理に意識的であるなら、たとえ闘争に終わりがなくても、それだけで人の心は満たされるのだ。そして本書の著者も、シーシュポスを幸福だとするカミュに倣い、スエロを幸福であると結論づける。

個人的な考えを言えば、皆がお金を使うことをやめるべきだとは思わない。どうにかしなければならないのは金儲け至上主義(資本主義)が行き渡ったこの社会であり、お金の発生と資本主義社会の誕生の間には、はるかな時間の隔たりがある。だからお金を使うこと自体は認めてもいいだろうと思うのだが、スエロが夢見ているのは、「お金が過去のものになる日」なのである。その日は我々が生きている間にはやってこないだろう。けれどもやっかいな道に足を踏み入れることが不幸とはかぎらない。今の彼ほど「生きることへの興味」を感じている者も、他にいないはずだ。
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784314011136
posted by 鶴見済 at 14:43| 書評など | 更新情報をチェックする

2017年08月06日

『おいしい資本主義』書評と個人の意見の大切さ

おいしい.png著者である朝日新聞の名物記者の近藤氏が、米作りに挑戦し、資本主義批判と脱成長論を展開している本の書評を書いた。
主張にはとても納得がいくのだが、「エコ」や「スローライフ」、さらには「まじめな人たち」への違和感まで自粛せずに書いていて、それがさらに本の主張をより独自のものにしている。こんなテーマの本にそれを書く人間が他にいるだろうか?
苦しければ苦しいと書き、納得いかない説には納得しない。いいことしか書かないのが普通の世界では、これは新鮮だ。個人の考えをちゃんと言うのはいいものだな、などと思えてくる。本の主張そのものより、その姿勢のほうに心を動かされたりする。
2015年の秋、『東京新聞』に書いた書評。

*********************************
衣食住のすべてをお金で買っている我我にとって、働くことはそのお金を手に入れるためのやむをえぬ手段にすぎない。お金にならない仕事はどんなに意義があっても、「食べていくために」諦めざるを得ない。しかしその諦めが蔓延した社会では、生きていくことはできても、肝心の生きたいという動機自体が失われるのではないか。
それならば、最低限自分の「食べていく」ものだけは作り、あとはやりたい仕事をやるという生き方はできないか。本書はまさにこれを実践しようと、長崎の支局へ異動した名物記者が、本業の傍ら毎朝一時間だけ自らの米を作ってみたルポとアジテーションの書だ。

ここで秀逸なのは、違和感があればどんな正論にも真っ向から異議を唱えていく姿勢だ。著者は資本主義を痛烈に批判するが、いわゆるエコロジー的な考えにも安易に同調しない。農薬の危険性は承知しながらも、周囲に害虫の被害を及ぼさないために自らもそれを撒く。山からの水を独り占めする大先輩とも、上手く関係を取ることで解決する。周囲との調和を最重要視し、人と人とのつながりを解体した近代社会を批判する。その一方で、近代化の産物である個人の自由をこの上なく愛しているのもまた著者自身なのだ。

資本主義、エコロジー、近代主義、反近代主義、いずれの考えも完全に正しいわけではない。それらを丁度よく修正するには、どの立場にも迎合することなく、こうした丁寧な異論を積み重ねていくしかない。著者の馴れ合いを嫌う姿勢は、こうした点でも大きな成果をあげている。
この体験記を読んで、米作りが楽だと思う読者はいないだろう。また人一人が一年間に食べる米の値段は、それほど高くはない。買ったほうが早いと言いたくもなる。大きなものには抗うよりも諦めて従ったほうが楽なのだ。けれども著者が生き生きと抗っている姿こそが、そこに少なからぬ価値があることを訴えかけてくる。
posted by 鶴見済 at 19:53| 書評など | 更新情報をチェックする