不適応者の居場所、久々の公園ピクニック報告

9月の不適応者の居場所は、久しぶりに散策ではなく座って話すスタイルにした。こういう形にすると人も増えて、全体で27人?、初めての人は6人?くらいだった2度目の人も同じくらいいたと思う。巨大シートを何枚も持っていって、距離は十分に取れた。散策には散策のよさがあり、同じく駄弁り会のよさもあるというところだ。 本でも音楽でも観察でも何でもいいのだが、大好きなものの話をするというのは、その人の自己紹介の意味合いも兼ね備えた、特にいい話題だなと感じる。話が合わないかもしれないデメリットはあるのだが。誰かとある程度親しくなるには、「自己開示」という要素がないと難しいが、大好きなものの話はその要素をはじめから持っている。(例えば何かについての評論のような話は、自己開示の要素は少ないと言える)。 結局真っ暗になるまで話して、その頃にはあたり一面に秋の虫の声が響きわたっていた。暗くなった途端に大きくなる虫の声に注目していたので、味わえてよかった。こういうのは、ずっと外に座っていないとわからない。 写真はその場所から見えた噴水。

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教室やオフィスに通う生き方の問題

教室やオフィスのような、人が密集しているひとつの箱のなかに一日中居ること。工場のような環境もそれに近い。そしてそこに毎日通うこと。これが人間の当たり前の生き方だと思っている人は多いだろう。そのこと自体を問題として考えたいのだ。自分も人生の初めの30年は疑いもなくそれをやっていた。その後思い切ってやめて以来、まったくその環境には縁がない。この変化は、自分の人生を振り返っても特に大きなものだった。そして今は、もしあれを続けていたらどうなっていたかわからないと、胸をなでおろすような気分だ。 あれほど人の視線が張り巡らされている空間に、あんなに長時間座っていることなど、今からでは想像もできない。否が応でも他人のことを強く意識してしまうし、意識される。意識し合えばもめごとも起きる。生きた心地がしないではないか。 ああした場所に通わない生き方など、何かとんでもなくひどいことになるのではないかと誰もが思うだろう。自分も初めはそう思った。けれども、そんなことはないと言っておきたい。(もちろん収入もつながりも、この社会は保障してくれないのだが)。 教室やオフィスや工場のような環境にずっと居ること、そしてそこに毎日通うことが当たり前になったのは、人間の歴史のなかでもヨーロッパで18世紀に産業革命が起きて工場ができ、続いて学校ができてからの、ここ200年くらいのことだ。人間の体や脳は、そんな環境に合わせて作られているわけではない。誰もができて当たり前のことではないのだ。だから意識過剰になったり、視線恐怖になったり…

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9月の「不適応者の居場所」は」代々木公園でどうか

つながりをなくしがちな人がつながるための「不適応者の居場所」は、代々木公園でのピクニックでどうでしょうか。すっかり涼しくなったし、日が暮れて虫が一斉に鳴きだすのを聞いてみたい。そして散策の企画は、考えるのが大変でもあるので。日時:9月2627日(土日)13時~17時?    延期になりました。 場所:代々木公園噴水池のそば、渋谷門から向かって右の池の向こう側。いつもの木の下、図の赤丸印) 持ち物:シートは大きいのを用意します。飲み物、食べ物は基本的に各自持参ですが、食べ物はある程度あります(できる人はカンパで)。アルコール可。 注意:支援活動ではないので、お互い様の精神で相手の気持ちを思いやることは欠かせません。ハラスメントはやめてください。   途中から参加、途中抜け、途中帰りなどすべて可。途中で公園の散歩に行くのもいいと思う。   話したくない人は話さなくても可。 対象:ひきこもりがち、フリーランス、労働週4以下、心の病、社内ぼっちなど、様々な理由でつながりをなくしがちな人。とは言え、基準は曖昧。どうぞよろしく。

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「人はみんな死ぬ」と思っただけでもホッとする

転んだことが直接の原因になって死んでしまう人は、国内で年間1万人もいる(間接的な死因となる人はもっと多い)。風呂に入ったことが原因(溺死・温度差など)で死ぬ人は年間1万9千人。そして去年1月の窒息死亡者は1300人。これらの原因は主に餅を喉に詰まらせたことではないかと推測される。(季節性インフルエンザで死んだ人は、18年は3325人)。これらは、最近自分で勝手に調べて分かったことだ。毎日今日のコロナの死者は10人、今日は15人、今日は13人、減る気配がありませんなどとやられると、絶望的な気分になってくるが、こういう数字を見ると気が楽になる。以前に本に書いたことだが、今地球上に生きている人が100年後にはほぼ全員死んでいると思ってまわりを見回してみるのも好きだ。 人は死ぬのだと思っただけでホッとするし、死んではならないなどと思うと肩に重い荷が載ったような気分になる。 前から思っていることなのだが、人が死ぬことをすべて、あってはならない痛恨の過ちのように見なして、死から目を背けていると、何かを見誤ってしまう。人が生きて死ぬというごく当たり前のプロセス全体を、普通に見ることができなくなってしまう。それは我々が生きるうえで、大きな考えの歪みをもたらしているはずだし、精神的な重荷にもなっているはずだ。(人が死ぬことを「殺された」と見なして、何かのせいにしようとする作戦のようなものも使われすぎていると思う)。 重荷になる言葉の最たるものが「生きることは素晴らしい」だ。自分は「生きていさえすればそれだけで…

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