「誰がどうした」ばかり考えるのをやめる
SNSがなかった頃のことはよく思い出せないのだが、その頃は「誰が週末にどこに行ったか」「何を食べたか」なんてことを、どうやって知ったのだろうか。当たり前だが、時々近しい人から伝え聞く以外は、会わないような人がどうしたかなんてことは知ることができなかったのだ。それを思うと我々が人間のこと、「誰がどうした」なんてことばかり考えるようになったのに呆れてしまう。
もちろんかつても「誰がどうした」を考えてはいた。けれどもそれは、ごく近い人間やテレビで見る有名人などに限られていて、そこから簡単に離れることもできたはずだ。
人間のことを考えるのでも、人間社会の問題を考えるのと、具体的な個人がどう振る舞ったかを考えるのは別ものと見なしたい。バッドなのは後者だ。具体的な個人について考えると共感も生まれるけれども、劣等感、疑い、違和感、反感なんかもとても生まれやすい。
前々回書いたように、「誰がどうした」で頭を一杯にしている状態でストレス、イライラが高まった場合、そのストレスは気に入らない相手にはけ口を求めるだろう。
殺人の半数以上が親族間で起きているのは、そもそも頻繁に接していないような相手は、殺したいほど憎めないからだ。けれどもSNSでいつもいつも見ていれば、同じように憎しみは高まる。
我々は嫌な情報を見ないわけではない。穴がブツブツ空いた気味悪い画像を凝視してしまう時、そこに何らかの気持ちの高まりがある。その性質を利用している広告もある。嫌な相手が発信する情報をわざわざ見る時にも、それはあるだ…