川原でやった居場所の報告

今年初めてリアルでできた居場所は、多摩川の河川敷だった。予定の二子玉川・兵庫島公園に行ってみれば、すでにピクニックの集まりがそこここに見られる。川が目の前にある場所にシートを広げた時に、またしても爽快感があって、この場所でできるだけで成功だと思った。 参加者は入れ代わりながら計27人(かな? 初めての人は6人?)。巨大シート4枚分の広さで、互いの距離も十分。昼は暑いくらいだったので、川の風が気持ちよかったものの、夕方にはそれが寒くなってしまい、まだ暗くはない17時に終わりにすることになった。 人が集まること。オンラインをしばらく強いられたあとだったので、その価値について考える。 政治家が突然「花見は禁止です」と声明を発表して、公園が立ち入り禁止の柵で覆われる。盆、暮れ、正月の慣行行事、忘年会、新年会、祭もできず、初詣も満足にできない。こうして見ると、人間が大きな楽しみとして育んできた催しは、だいたい人が集まることなのだ。その価値もよく考えずに、ずいぶんあっさりと「禁止にします」ばっかり言ってないか。本当はもっと価値のあることなのだ。尊重が足りないと思っている。 写真はその多摩川河川敷。多摩川は多摩地域民の心のオアシス。毎年台風で増水して河川敷が水没するため、使えない土地が広がっている。都市部にはありえない「NO MAN'S LAND(誰のものでもない場所)」が残っている。それが素晴らしい。自分も子供の頃から、その恩恵にあずかっている。この川からの風の気持ちよさはよく知っている。

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3月の「不適応者の居場所」は川でどうか

3月の不適応者の居場所、川はどうでしょう。ちょっと遠いけど。 今回は東京都の花見禁止のせいで、大変な難航を余儀なくされてしまった。何しろ、どこか外で駄弁る集まりをやりたいだけなのに、花見は禁止。調べると、ピクニックができる公園や緑地には、必ず桜が咲いている。つまりピクニックをするだけで花見になってしまうし、そもそもシートを広げて飲食することを都や区(の多く)が禁止している。 そこで河原に行き着いたわけだ。まったくいつも、「花見のように座って駄弁る」と書いているのに、花見のシーズンにわざわざ桜のない場所探しでへとへとになるとは、まったく馬鹿馬鹿しい。しかしながら、川辺で駄弁る会というのも滅多に開かないし、気持ちよさそうなので、それはそれでよかったのかなと。川辺に行ったりしながら、春を満喫しましょう。 日時:3月27日(土) 12時50分、二子玉川駅改札を出たところ集合。多摩川河川敷の兵庫島公園(?)に移動。公園までは徒歩5分。(場所が決まったらTwitterで発表するので、集合時間に間に合わなくても合流はできます。が、兵庫島公園の込み具合など状況が予想がつかず、ピクニック広場のほうまで行く可能性もあり。場所が定まらないので、合流が確実にできるとは言い切れません。)雨の場合は翌日に延期。 兵庫島公園の様子 開催時間 13時~17時頃。 持ち物:食べ物、飲み物は各自持参してください(食べ物はカンパ制で多少ありそう)。シートはこちらで持っていきます。桜はないので花見はダメ云々とは関係なく、…

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自分の不幸を第一に考えることが大事

これもずっと前から気になっていたこと。「人が幸せになれる世の中にするにはどうすればいいか?」と、たくさんの人が考えるだろう。その時の発想のしかたに疑問がある。 今なら普通は、「じゃあ医療どうするんだ」「教育どうする?」「税制どうする?」(以下無限に続く)というふうに発想するだろう。もちろんそれは大事なのだが、「幸せになれる世の中にする」というワクワクするテーマの割には、ずいぶん義務的・勉強的でやる気の湧かない話だ。 もっと普通の発想のしかたってないのだろうか?まず自分の人生を振り返ってみて、何が一番不幸だったか考える。その不幸を感じた人が他にもたくさんいそうなら、それをなくすことで世の中を幸せにする。むしろ、そっちのほうが順番として普通じゃないだろうか。 前者は「社会全体からはじめる考え方」、後者は「自分からはじめる考え方」と言える。19世紀後半から20世紀前半くらいの世界では、まず社会全体をどう作るか、いちから考える必要があった。王様が支配していた国を壊して、新しい国を作らなければいけなかった。第三世界では、20世紀後半がその時だった。まさに「医療どうする、教育どうする」だ。「社会全体からはじめる考え方」は、そういうところから続いている発想のしかたに引きずられているように思う。もちろんそればかりではなく、政治家的な発想のしかたが下りてきているとも言えるが。けれども今ならもう、「自分からはじめる考え方」をしてもいい。いや、いつだってそうしてよかった。 (発想のしかたを以前からのものに縛…

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なんかムカつく相手を攻撃するために、後から正義や理屈をくっつけるやり方

「なんかムカつくから攻撃したい」、だから攻撃する。いじめはこういうものでもあり、これがだめなことは明らかだ。そして「なんかムカつく」はいじめの原動力であるというのは、専門家の意見だ。 それでは、まず「なんかムカつく」相手がいて、攻撃するために、あとから理屈や正義をくっつけるケースはどうか。よくあると思うが、それも同じくだめなはずである。けれどもそっちは、見過ごされているのではないか。 子供のいじめでも、正義を口実にして行われている場合が多いというのも、専門家の意見だ。確かに「〇〇君は悪いことをした」といった理由でいじめが行われるケースは多いと感じる。人はまったく理由もない攻撃など、滅多にできないのかもしれない。自分の理不尽な攻撃を正当化するためにも、自分のなかでも後づけの理屈・正義が必要なのだろう。 正しさの立場から何か悪いものを攻撃するのは、本来悪いことではない。こうした後づけの正義や理屈は、その形だけを悪用していることになる。 では、攻撃の理屈や正義が後づけである時の目印は何かあるだろうか?後づけだけあって、「よく考えてみればそれほど悪くない」というケースが多いのではないか。それに比べて、ムカつきはもともと大きいだけに、攻撃が不釣り合いに大きくなることも目印になるのではないか。 そして、悪のレッテル貼りが行われることも多いと思う。例えば「ヒトラー」といった悪者・敵のイメージに、攻撃したい相手を寄せていく。そうして、「攻撃している自分=正義、ムカつく相手=悪」の構図を捏造し…

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