8月の居場所は「デスカフェ」をやってみた
不適応者の居場所8月は、死について語る集まり「デスカフェ」をオンラインでやった。参加者は12人。
はじめは、肉親など身近な人の死の話から。そしてだんだん死そのものをどう受け止めるか、怖いか、空しいか。そして自分が死にたい話など。
自分も頭のなかが忙しいので、メモが取りづらくて正確ではないのだが、大体以下のような意見が出た。(ニュアンスが違っていたら申し訳ない)
●父親が死んだ時は、ずっと嫌いだったのに美化をした。が、しばらくして元に戻った。●許せない人が死んでも、やはり許せない。●他人の死は、その人との関係の総まとめ。●子供のころから若いうちに死ぬと思っていたので、長く生きるとなった時に面倒に思った。●生きているのが好きなので、永遠に生きていたい。死にあらがっているのがいい。●子どもができたら、むしろ自分はもう死んでもいいという気になった。●ずっと死にたいと思っている。●死ぬことより生きることのほうが怖い。●仕事が大変すぎたが、視野が狭くなってやめられない状態になり、その時に死のうとした。
以下は完全に自分の感想。
今回は、話を聞いていて涙が出そうになるところもあった。死の話そのものも「とにかく生きることだよ!」みたいな熱血な空気のなかでは難しいのだが、特に「死にたい」と言い出すことは困難。否定されるのだから、それも当然だ。社会全体でも学校のような場所を筆頭に、そういう空気のなかにずっといたのだなと思う。どちらが健全なのか、わかったものではない。また、「生きるのは楽しい」という人でも…