9月の「不適応者の居場所」@デスカフェの報告

9月の居場所は前回に続いて、死について気軽に話すデスカフェをやった。参加者は9人。 今回もまずは肉親(母親)が亡くなった人の話から。そして親が死ぬ前に、わだかまりを解消したほうがいいかどうか。そもそも自分が死ぬ時に、尊厳死・臓器提供を選ぶか。埋葬のしかたはどうしたいか。さらに入る墓はどうする、墓に入れてくれる人はいるのか。さらに、基本的に生かすことだけ考える日本の医療のことなど。 これも、なかなか話が尽きなかった。 具体的にはこんな話が出た。 ●母親が死んだ時、和解しておけばよかったと思った。●父親が死ぬ前にわかりあおうとしたとしても、きっとわかりあえなかった。●延命治療は、きっとやっちゃうだろうなと思う。●この先ずっと苦しいとわかっているなら、延命治療はしたくない。●たくさんの人と一緒に入る墓がいい。●樹木葬をしてほしい。●死んだ後にまでこうしてほしいという希望があるのは面白い。それを考えたら、死後の世界もあるのかもしれない。●母は父と同じ墓には入らないと言っていたが、死の直前になってやはり入ると言った。●がんになっても、抗がん剤治療など苦しい闘病をがんばりたくない。 司会をしていると、メモというのは取りづらいので、これは雑なまとめだ。もしニュアンスが違っているものがあったら申し訳ない。 そして今回は、進行役として後悔があった。発言の量があまりにもひとりの人に集中しすぎた。何と言って制したらいいのかわからず、注意が遅れた。強権的な進行もよくないと思っているが、発言量にあまりにも不…

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9月の「不適応者の居場所」はまたデスカフェでどうか

9月の居場所は、またデスカフェをやってみるのはどうでしょう。 前回たくさん話が出て時間が足りないくらいだったし。また、尊厳死など死に際のことや、死後のことなど、話せてないテーマもあるし。さらに、死から発展して、じゃあ人生って何歳くらいまでがいいのか、どう生きたら死ぬのも悔いがなくなるのか、今の日本社会の死と生の語られ方のおかしいところといった、「死生観」全般のほうに持っていくのもいいと思う。 コロナ騒動のせいで、死ぬぞ死ぬぞと言われているけれども、自分にも、こんな死生観おかしいよ、と思うところは多々あった。(あまり管理人の考えを打ち出すのはよくないが、、、) これらはもちろん参考のための一案として。基本は、語りたい人が好きなように語るところから展開していくのがベスト。 ********************************日時:9月26日(日) 16時から2時間 やること:Zoomでデスカフェ(死についてカジュアルに話す会) 参加できる人:一度は居場所に参加したことのある方。まだURLを知らない場合は、Twitterなどで鶴見まで。その際には、いつごろ・どこでの居場所に参加したか、その時に自己紹介で使われた名前や話された内容、容姿など、確認できる情報を教えてください(憶えている範囲で可)。最近のZoomでは、参加時のパスワードなどの入力が必要になったので、それらを知らない方も、参加希望の場合はご連絡を(Twitterのメッセージのグループみたいなのに入っていただくかも。何…

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「もっと政治に怒れ」という圧、「革命モデル」について

心が苦しいのは社会のせいなのだから、心を癒してはいけない。原因である社会を変えなければいけない。 こんな言い方がある。例えば不眠症は、社会に原因があるかどうかわからない。「すべて社会のせいだ」というところに無理がある。それでもこの説は、一方ではかなり支持されている。 このようなある種の姿勢をよく見かけないだろうか?世の中に悪いことがあるなら、すべては社会制度や政治のせい。こういう方向に持っていく姿勢だ。「社会制度や政治のせい」は結局、「政府のせい」ということになるだろう。 そしてそれは「その問題の解決方法は、人々がワーッと怒りで立ち上がって悪い政府を倒すことだ」という見方とセットになっている。(選挙で倒すのもその一部である)。これは民衆の革命が、世界で割とよく起きていて、先進国でもそれが叫ばれていた時期(70年代まで?)に定着した考え方だろうから、「革命モデル」と呼んでおく。「問題はすべて政府のせいであり、解決はすべて政府を倒すこと」という姿勢と言えばいいか。(このネーミングは大雑把なものだけども)。 こうすることによって解決できる問題があるので、自分も随分こうした方向も提唱してきたし、実践もしてきた。けれども「これのみ」と考えすぎることの弊害も見てきた。 「道は革命モデルだけ」と考えてしまうと、問題の原因を政治・政府以外のところに置く人、そもそも関心を持たない人は邪魔になる。 政治について意見を言わない、と芸能人やミュージシャンが批判されているのをよく見る。よからぬこと言った…

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「レッテル貼り」を見逃さない

前回に続き、「大して悪くもない人を叩きたい時に使われる手口」シリーズの第2回。今回はレッテル貼りについて。 例えば90年代にはたくさんの人がこういう被害にあったが、いくつかの共通点をあげて、「誰々はオウムとまったく同じだ」とそこそこうまく言えば、いきなりその誰々さんは怪しい人、危ない人に思えててくる。宅間守、加藤智大、宮崎勤なんかの名前も、同じように使われるだろう。 「誰々は〇〇主義者(〇〇イスト)だ」などもよく使われるパターンだ。ここで言う「〇〇」はとてもイメージが悪いもので、その集団の「敵」であることもよくある。「ナチス」や「ネオリベ」なんかはよく使われる。ここで言うレッテル貼りとは、こうした悪者のレッテルを貼ることだ。日常的に、SNSなんかでもとてもよく見かける。 何かよからぬことをして話題になった人について、経歴や家庭環境など、いくつかの点をピックアップして、いい加減に「こういう人だ」とまとめてしまうことがよくある。レッテル貼りは、そのさらに手を抜いたやり方だと言っていい。 ただし、オウムみたいな人、ナチスみたいな人なんかめったにいるわけがない。それなのに、わりとあっさりと受け入れられてしまうのはなぜだろう?自分の考えはこうだ。人はいつでも、他の人物のことを(アーチストでも何でも)「簡単にわかりたい」と思っている。けれどもひとりの人には、いくつもの側面があって複雑で、そうそう簡単にはわからない。最後までわからないかもしれない。だからこそ、その人をあっさりとわかった気になれるもの…

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