それでも「人に迷惑をかけてはいけない」

「人に迷惑を?」と聞いたら、今では「かけていい」という答えのほうが多く返ってきそうだ。そのくらい「もっと人に迷惑をかけていい」は流行りの言葉になっている。これにはさすがに当惑する。 なぜなら自分が世の中のルールで一番大事なのは、「人に迷惑をかけてはいけない」だと思っているからだ。相手に迷惑行為をしたり、嫌がることを言ったり、殴ったり、殺したり、、、人に迷惑をかけていいなら、他に何か禁じるべきことがあるだろうか。 「人に迷惑をかけなければ、何をしてもいい」むしろこう主張したい。なんて胸のすく言葉なんだ。人に迷惑もかけていないのに、ガ―ガ―と非難することが多すぎるのだ。 いや、もちろん「人に迷惑をかけていい」の真意はわかっているつもりだ。そう言っている人は、「もっと人に助けて(手伝って)もらっていい」と言いたいのだろう。その言葉がどこから出てきたのかも大体わかる。70年代の障害者の運動からだろう。なのでその言葉は「人に助けてもらっていい」に言いかえたほうがいいのではないかと、以前から言っている。それなら大賛成だ。 一方自分が大事に思っているルールのほうも、「迷惑」という言葉はちょっと違う。「人を加害してはいけない」「不当に攻撃してはいけない」(※)といったところか。 「皆さんも攻撃だけはしないほうがいいですよ」こんなことを先日、一年に一度だけやっている大学の講義で言った。不適応者の居場所の話のついでだったのだが、若い人にひとつだけ伝えたいことはなんだろうとあらかじめ考えて言ったこ…

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クリスマスの居場所、やってみたらできた

今年最後の不適応者の居場所は、クリスマス会になった。クリスマスらしいことは何もやらなかったけれども、自分としてはうまくいってよかった。参加者は40数人。初めての人も10人くらいいた。 今回は初めての場所だったので、まずうまく行くのかどうかが心配だった。いくつもの条件をクリアしてギリギリに見つけた会場だったので、下見もしていない。思った形に会場づくりができるか? 来る人が多すぎず少なすぎず、適度に距離を保って座ることができるか?これだけたくさんの人に来てもらうのだから、ダメでしたというわけにもいかない。 けれども結局何の問題もなかった。もちろん話している間も面白いことがたくさんあったのだが、終わってみるとそこが感慨深かった。 以前に「くるくるひろば」という不要品無料提供の店?を作った方にインタビューしたことがある。「一番よかったことは何か」と聞くと、彼女は環境問題などのことより、「やってみたらできたこと」と答えた。その時も「それ、よくわかるな」と思った。 今回も長い間会場が見つからなくて、もう冬は休みにしようかとも思った。もちろんどんなことでも、やめてしまうのは時には有効な手だ。色々と不安が多いたちだったので、その手を使うことはこれまでにもとても多かった。今の世の中的に見ても、無理せずにやめてしまうことのメリットを言ったほうがいいような気もする。けれども「やってみたらできた」というのは、かなり代わりのきかない感激だ。 この集まりの一回がうまくいくなんて、ほんの小さなことなんだけ…

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年末の居場所はクリスマス会でどうか

今年最後の「不適応者の居場所」は、クリスマスイブの昼でどうでしょうか?ただ、もともとイヴがいいと思ってたわけではなく。12月の外は寒いので今回は屋内を取ったのですが、空き日程の関係でそこくらいしかなかったのです。イヴの夜は用事がある人が多そうなので、昼過ぎにしました。だけどクリスマスの集まりなんて、あまり経験できない人もいるだろうから、これでいいかなと。自分もクリスマス会なんて最近はまったくなし。ついでに言えば、忘年会もありません。 今回は会場探しもあって、すごく大変でした。行ったことのない貸し会議室なので、どうなることやらまだまだ不安です。 日時:12月24日(土)14時~17時半。    (予約などいりません。当日直接会場に来てください)。 場所:後楽園駅近くの会議室 (もし当日場所がわからなくなっても、会場運営者には問い合わせないでください)。   机は隅に片づけて床に布を敷き、そこにいつものように座りたいです。なので最初と最後に会場を作る・元に戻す時間がかかります。持ち物:各自の飲み物(飲酒も可)、食べ物も必要なら。おいしい手作りの食べ物は、カンパ制でおそらくそこそこあります。    敷く布は持っていきますが、広い部屋なので足りないかもしれず、布・シートなど持っていたほうがいいかも。 費用:会場代が1万4千円かかっています。それから食べ物もあるので、2万~2万5千円くらいは全員(35人くらいの見込み)のカンパでまかないたいです。カンパは必ずしてください。    対象:ひきこ…

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群れのなかにいることと自分で考えること

群れのなかのその時その時のノリで「いい/悪い」が決まってしまう世界がある。内藤朝雄氏の『いじめの構造』という本では、そんな秩序を「群生秩序」と呼ぶ。学校の秩序とはそういうものだ。この本はいじめについての本のなかでも、いじめをする側の心理を解き明かしている点で特に優れている。一方、普遍的なルールによって善し悪しが決まる秩序を「普遍秩序」と呼んでいる。確かにそういうものは、学校の外にもある。 例えばグループのリーダー格の人物がハンバーガー店の看板を見て、「ハンバーガー食いてえな」と言ったとする。「ハンバーガーうめえよな」とまわりの者がそれに次々に従う。そのなかで「昼飯ならさっき食べたばかりじゃないか」と思っても、それが理にかなっていても、言わないでいたほうがいいかもしれない。 自分が思うのは、こういう秩序のなかで生きていると、「みんながどう思っているか」ばかり考えることになるということだ。特に身に危険が及ぶ時などは、必死にそればかり考える(「読む」と言うべきか)だろう。普遍的な秩序のなかにいれば、もっと普遍的なことを考えるはずなのに。群れのノリのなかで生きる場合は、一般的に見たらどうかにこだわるとむしろ身が危ない。(ナチスドイツのなかで官僚だった場合とか)。 自分は常々、「自分の頭で考えずに他の人の考えばかりうかがっている」ようなことがどうして起きるかつについて考えることが多い。もちろん自分だって他人事ではないし、それをなくすなんてこともありえない。けれどもひとつには、こうした群生秩…

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