我々日本に住む者が“豊か”であるとされる根拠は、GDP(国内総生産)が世界で2位だということだ(註1)。豊かさを測るほとんど唯一絶対の基準がこのGDPであり、経済成長とは、単にこの値が増えることでしかない。
GDPとは「ある年に国内で生産されたモノやサービスの付加価値(儲け)を足したもの」だ。経済学でも当たり前に、「GDPが大きくなる=いいこと」と見なされてきた。
では奇跡の経済成長を遂げたはずの我々は、なぜこれほど“豊かさ”からほど遠いのか?
GDPは簡単に言えば、我々がカネを使うほど大きくなる。
ありもので弁当を作っていくよりも、500円のランチを食べたほうが、500円のランチよりも1000円のランチのほうが、GDPは増える。
引越しをする時に友人に手伝ってもらっても、仮にその友人に謝礼金を払ったとしても、そのやり取りは市場を介していないので、GDPには加算されない。ただしこれを引越し業者に頼めば、GDPは増える。
すべての家事は、カネに換算できないのでGDPには含まれないが、子どもを自分で育てずに保育園に預ければ、老人を家庭から施設に移せば、GDPは増える。
皆が水道水を飲むのをやめてボトル入りの水を買うようにすれば、GDPは増える。公園で遊ぶのをやめて、遊園地に行けばGDPは増える。自分で服を繕わず、捨てて新しく買えば、CDの友人との貸し借りをやめて、一人一人が買えば、自転車はやめてタクシーに乗れば、野菜は作らずに買えば、カネがなければ借金をして買えば……、いずれもGDPは増えるのだ。
つまりこういうことだ。我々がカネを使わずに、自分自身で、家庭のなかで、友人と、あるいは隣近所といった共同体でやっていたことを、カネを払って誰かにやってもらうほど、それもよりたくさんのカネを使うほどGDPは増える(註2)。
DIYや自給自足や共有や相互扶助を進めることは(それどころか単なる節約までもが!)、GDPを減らし経済を縮小させるのだ。
経済学者はもちろん、カネが回れば回るほど儲かる資本家も、それらと結びついた政治家も、経済成長を「いいこと」として疑わない。特に日本人は、言われるがままにこのGDP(かつてはGNPだった)を「信仰」してきてしまった。そして我々の生きる環境は、見てのとおり徹底的に経済市場に食い荒らされたのだ。
世界中で近代化の過程を通して、共同体や自給自足圏をどんどん市場が侵食していき、人と人との繋がりを失わせて、カネを通した繋がりに変えていくことで、資本主義経済は成長してきた。それなら「経済成長するほど、我々は貧しくなっている」と言うことだってできるはずだ。(続く)
(註1)ただし一人あたりのGDPでは、日本は世界で19位(07年)なのだから、取り立てて“豊か”だと騒ぐ必要もないんだが。
(註2)そのために、よりたくさん賃労働をして、よりたくさん生産し、よりたくさんのカネを稼がなければならなくなるのだが。経済学では、支出と生産と所得はイコールということになっている。
図は各国のGDPの推移(単位:100万USドル)。今や日本と同じほど“豊か”になっている中国も、ダントツで1位のアメリカも、あまり羨ましくないのはなぜなのか?