経済学はいかにデタラメであるか

スリランカの茶のプランテーション.jpg「たいていのパパラギが、その職業ですることのほかは、何もできない。頭は知恵にあふれ、腕は力に満ちている最高の酋長が、自分の寝むしろを横木にかけることもできなかったり、自分の食器が洗えなかったりする。」
「一日に一回、いやもっと何回でも、小川へ水を汲みに行くのは楽しいことだ。しかし日の出から夜まで、毎日毎時汲み続けねばならないとしたら(…)、最後には自分のからだの手かせ足かせにむほんを起こし、彼は怒りのなかで爆発するだろう。まったく、同じくり返しの仕事ほど、人間にとってつらいことはないのだから」 ──サモアの酋長・ツイアビ(註1)


「どんな(劣った)国でも比較的に生産性の高い産業に特化して、それを輸出し、他のものをそのカネで輸入すれば豊かになる」。これが経済学で最も重要な命題のひとつとも言われる「比較優位(比較生産費)説」(註2)だ。この19世紀の前半にイギリスの投資家が考えた説が、今でも自由貿易を世界が推し進める論拠になっている。

ではそのとおりに、例えばコーヒーの生産に特化した「南」の国々は豊かになっているか? なっているわけがない。
理論がどうだか知らないが、現実にはコーヒー豆の相場は大きく変わるし(基本的には常に安く買い叩かれている)、輸入する食料の値段も高騰する。コーヒー豆で思うように稼げなかった年には、その国の農民は食料が買えずに餓死してしまったり、農地を後にして都市に出てスラムに住むしかなくなってしまっている。これはコーヒーだけでなく、カカオ、綿花、ゴム、ココナッツ…といった換金作物の輸出に特化した多くの「南」の国に見られることだ。豊かになるどころか、この“モノカルチャー経済”こそが飢餓の大きな原因になっている(註3)。
だというのに、世界ではこの比較優位説に則った換金作物の単一栽培が、IMFなどによって債務国に押しつけられ、ますます事態を悪化させているのだ。

カリブ海のプランテーションで働く奴隷.jpgこの比較優位説と前回書いたGDPの話は、深く関係している。
こういった分業をどんどん進めようという考えは、国と国との貿易に限らず、アダム・スミスから始まる経済学の考えの根の部分にある。つまり個人についても、得意なことだけやって、あとは他の専門の人にやってもらえば、全体が豊かになると考えられていて、やはりそのとおりに我々の社会は変わってきている(註4)。この経済の仕組みは、各個人まで”モノカルチャー化”するのだ。
けれどもそのせいで、ひとつの国がそうであるように、ある人が仕事を失ってしまったら、まったく生きるすべがなくなったり、何の役にも立ってない人扱いされるようになってしまってるんじゃないか?
今強調すべきなのは分業のメリットではなく、行き過ぎた分業を見直して、より多様で自給自足的な方向に戻すことだ。
我々は別に、社会の生産性を上げるために生きてるわけじゃないのだ。


(註1)『パパラギ』(立風書房)より。パパラギとは白人のことで、この本は初めてヨーロッパ社会を見たサモア諸島の酋長・ツイアビが、その“異常さ”を語り、世界中で読まれた演説集。
(註2)D.リカードという、アダム・スミスと並ぶ古典派経済学の大物が唱えた説。
(註3)また単一栽培は、天候不順や病害虫の発生で、全滅してしまう危険性が高いため、それを避けるためにも、多様な農作物を育てる必要性が叫ばれている。自動車をはじめとする工業製品の輸出に特化してきたこの国も、もし自動車が突然売れなくなったら、食べるものが買えるのかどうか。
(註4)今の経済学の言う「豊かさ」というのは、資本家の豊かさのことを言っているような気がしてならない。
参考比較優位全面肯定論:「超」整理日記 野口悠紀雄
関連日記:「生きるのに
必要なこと」とは何だったか?
図上はスリランカの茶のプランテーション。19世紀初頭にイギリスの植民地となったスリランカでは(その前はポルトガル、オランダの植民地だった)、輸出用の茶(紅茶)の大規模栽培を押しつけられ、今でもモノカルチャー経済から脱却できていない。
図下は、19世紀カリブ海、イギリス植民地のサトウキビ・プランテーションで働かされる黒人奴隷。

追加参考映像:カカオの真実 (カカオに限らない一次産品と搾取の話がわかりやすくまとめてある)