2007年01月26日

缶ジュースに見る消費社会の問題

「缶ジュース問題」というのが自分的にある。

街中をよく見ると、あまりにもたくさんの缶ジュースというか缶飲料(清涼飲料水、コーヒー、茶なども含む)があふれかえっている。缶一本分の飲みものなんて、水飲み場や水筒でもあれば、もともとあまり必要なものじゃないだろうと思うんだが。もし、そもそも缶飲料自体がある程度ムダなものだとしたら……。

そのひと飲み分にごと使い捨てられる大量の容器のムダ。それらを24時間、つめたいとかあったかいとか温度調節してる無数の自販機の電気代のムダ(国内の自販機が使う電気は、原発1基分の発電量に迫っている)。さらにそれらの缶飲料新商品にかけられる膨大な広告費のムダ。さらにさらに、それらの商品を企画し、製造し、運搬し、宣伝し、回収するすべての労働力のムダまで思いをはせると……(缶飲料のために一生を捧げる人だってたくさんいるだろう。コカ・コーラ社の人とか)。なにか途方もない気分になる。

しかも、そういう商品は缶飲料に限ったことでもない。必要がないとは思わないが、電気屋に並んでいる携帯電話やパソコン関連機器、音楽機器、スーパーにある化粧品や“洗剤的なもの”等々のあのおびただしい「種類」はなんなんだろうか?

先進資本主義諸国というか消費社会は、というより我々は、もともとそんなにはいらないものを大量に作って、買わせる、みたいなことばっかりやってしまってるように見える。 なにか、途方もない資源・エネルギーの浪費であるだけでなく、我々の生きるエネルギーの浪費というか。こういうことをやってると、第三世界の人は飢えるかもしれないし、我々自身だって生きるのが大変になっているだろう。

そう思って以降、缶ジュースを買わないためにペットボトルに水を入れて持ち歩き、反資本主義経済運動を勝手にやっている。

posted by 鶴見済 at 22:14| 人間界の経済 | 更新情報をチェックする