これも前に書いたことだけれども。
見田宗介という社会学者の持論でもあるが、人は「翼を持つこと」と「根を持つこと」というふたつの根本的に矛盾する欲求を持っている。
自分なりに解釈すると、前者は束縛から逃れて自由になること、後者は何らかの共同体に帰属して安心することだ。
人、特に近代人は、地縁・血縁関係から離れて自由を求めるが、同時に孤立し、不安定で不安になる経験を多かれ少なかれ持ってきた。
そこで何らかの共同体に帰属先を求めると、今度はある程度、自分個人の自由は放棄しなければならない(ここで、国家などの権威や、「大勢の人たち」の画一性に自分を投げ出す、つまり「みんなと同じ」になる場合、E.フロムはそれを“自由からの逃走“と呼んだ。これは今、この国で起きている現象なのかもしれない)。
民族や国家といった特殊な括りが、対外的(あるいは排他的)な力を持つことができるのは、個人が自らをそこに投げ出し、ある程度犠牲になるからとも言えるのだ。
個人は「そこからはみ出さない」という足かせと引き換えにしか、孤独孤立からくる不安を解消できない。
ここに根本的な矛盾がある。
では、その矛盾を乗り越える方法はないのか? つまり自由でもあり、安心もできる帰属先を持つことはできるか? 見田氏はこう言う。
もし、その帰属先というかアイデンティティの置き所を、この自然界全体に置いたらどうか? それは、どんな部分的・観念的な括りでもないので、そこからはみ出す心配はないし、自己犠牲もいらいないし、排他性も生まない。
我々個人の実体であるこの身体は、その一部分なのだから、そこからはみ出すことなんか、どうせできないのだ。
まあ、あまりうまくも言えないんだが。詳しくは見田氏が真木悠介名義で書いた『気流の鳴る音』という本を参照してほしい。
でも、そういう帰属意識は、気分的に楽になれるのでいいし、別に珍しいことでもなく、むしろ今時では“ありふれている“と言えるほどメジャーなものになってきていると思う。