「生きるのに必要なこと」とは何だったか?

51CMYZQRB7L__AA240_.jpg街中を眺めていると、「都市に生きてるヒトは、生き物としていったい何をやってるんだろうか?」と不思議な気分になることがある。
本来「生き物として生きるために必要なこと」、例えば衣食住に関すること(食べ物を獲ったり育てたり、服や家を作ったり)は、ほとんど何もやってないのだ。
で、それを人にやってもらうカネを稼ぐために、誰が生きるのに役立ってるのかわからないような書類の整理みたいなことばかりやっている。
こういう“仕事”が実質的には、「生きるのに必要なこと」にすり替わっている。

都市生活者は、こういう“デスク・ワーク”(机に向かってすること)に加えて、“趣味”(音楽を聴いたり、映像を見たり)や“スポーツ”なんかも、かなり猛烈にやってるように見える。
けれどもこういったことは、基本的にまったくやらなくても、生き物として生きていけるはずなのだ。
(学校時代を思い返すと、やってたのは勉強とスポーツと趣味ばっかりで、それに長けている人ほどほめられるような空気があった。この社会はこういう人間を育成してると思う。)

大ざっぱに言って、都市部に住んでる我々がそれらの努力の一部分でも、こういう「本来生きるのに必要なこと」をするほうに向けてたら、「世界で飢えてる人の半分は、食べ物を作ってる“農民”である」という信じられないような事態も、多少はマシになってただろう。

大体どんなに生活環境が変わったところで、この身体はそんなに簡単には変わらない。太古から相変わらず、本来生きるために必要なことをするようにできてるわけで、こんなことでは体が満足しないはずなんだが。

けれども、今「本来は」なんてことを言ってたら、逆に生きていけなくなったりするのだから、一体どうすりゃいいのかわからないんだが。
ただ「家事」なんかは、衣食住に深く関わっているので、せめて、そういうことを少しずつやっていくのはどうだろうか?

(ちなみにこれは、『パパラギ』という、サモア諸島の酋長が、ヨーロッパ白人の社会を批判した本に触発されて書いた。彼は、「ヨーロッパでは、都市の人間のために周辺の農民が、自分たちが食べる分以上の食べ物を作ってあげているのが変だ」などと言っていて、ハッとさせられるところが多い。)