「神」の代わりとしての「自然科学」

“神“を信じることができなくなってしまったヒト、特に我々近代人には、それに代わるものがなくていいのか?という疑問がないこともない。

ヒトは太古から、どんな人種であれ宗教や神話を作って、「自分たちがどこから来てどこへ行くのか」「この世界はどのように始まり、どういう構造をしているのか」「ヒトはどうあるべきか」といった疑問に答えようとしてきた。
こういう“真理”とか“善悪の基準”とかがわからないままではいられないらしい。

例えば、人間界で最も有名な神話であろう『旧約聖書』の冒頭の「創世記」には、神は、6日間で世界を創り上げ、7日目に休んだとか、ヒトにすべてを支配させるように言ったとか書いてある。
かなり傲慢な人間中心主義的世界観だが、こういった物語はどんな文化にも必ずあって(「大きな物語」とかいうもののなかでも最大のものだ)、信じられ、その文化や共同体を成り立たせてきた。

こういうものが信じられない場合ヒトは、つきつめれば「虚無主義」に立たざるを得なくなるんじゃないだろうか?(全然他人事ではないが、それでも、もはや信じられないものに無理やり落としどころを見出すよりは、よほどマシだと思う)。

そして、16・17世紀頃からヨーロッパに台頭して、結果的に、この宗教に取って代わることになったのが、自然界に関する学問研究である「自然科学」だ。
自然科学は、“万有引力の法則”だの“進化論”だの“相対性理論”だの、“量子力学”だの“分子生物学”だの……を見出したり発展させたりしながら、世界中に広まっている(自分もその常識の中にいるんだと思う)。
そして、「我々の来し方、行く末、世界の構造」などについては、不完全ながらも、宗教・神話よりは上手く説明してしまった。

結局、「宗教や神話に代わるもの」というのは、この自然科学以外にはないんじゃないか。
「科学信仰」と言えば、“科学技術”や“応用科学”の進歩を妄信する態度を指しがちだが、そういうのはむしろもういい。
それよりも“自然科学”による全体的な世界観みたいなものを、宗教・神話の代わりになれるように、というか、自分の生き方やヒト全体のあり方の指針、あるいは善悪の基準になれるように、ちゃんと総合化したほうがいいんじゃないか?

自然科学は、無味乾燥で物語でもないが、そうなれるものだと思う。
そういう形で自然界に着地していくべきだというか、なんと言うか。
しかし、やけに大げさな話になった。そして上手く言えない。