単に、歌ったり踊ったりする気持ちよさには、何か特別なものがある。
まず基本的に、対立する他人の存在を前提にしない。これによって誰かがひとついい思いをしても、別の誰かがひとつ損をするわけじゃない。
それに比べて、競争的、敵対的、あるいはいじめ的な喜びというのは、必ず誰かの犠牲の上に成り立っているもので、全員がそれで喜ぶなんてことはできないし、長くは続かない。
そして、他人のマイナスを伴わない喜びというのは、人間全員がやっていても、人間界の貧富の差や敵対といった問題を生まないはずなのだ。
次に、元手がいらない。つまり、物を買ったりするわけではないので、なんらかの資源や財産の浪費の上に成り立っている楽しみ方でもない。これを人間界の全員が続けていても、他の生き物や自然界からの収奪も一向に進まないはずだ。基本的には。
そして、こういうことは単に本人が気持ちいいからやるんであって、そうすることで子孫を残せたり腹の足しになったりするわけではない。なんのためにこんな機能が体に備わってるのかわからないが、純粋に気持ちよくなければ、古今東西、老若男女を問わず、ヒトはこんなことをやってこなかっただろう。
つまりこういう楽しみ方というのは、大げさに言えば、個人の”生きづらさ”の問題も、人間界の”格差”や”戦争”の問題も、自然界の”環境破壊”の問題も一挙に解決に導く、というか、少なくともそれらの問題を悪化させるものではない。そういうところが特別なのだ。ヒトはそういう「自立的」な楽しみ方に向かっていくのがいい。
まあ、別に「歌う」「踊る」に限らなくても、「春の天気のいい日に公園を散歩する」とか、色々あるはずだから、どうせなら競争なんかするよりは、そっちを追求していきたいものだ。
もちろん、そんなことばっかりやってても生きてはいけないわけだが。
参考:『現代社会の理論』(見田宗介 岩波新書)、『檻のなかのダンス』(自著)