「個人であろうが、企業であろうが、あるいは国家であろうが、この世界で生き延びるために重要なことは、競争相手に勝つことである」
多国籍企業ネスレの経営者の世界経済フォーラム(ダボス会議)での発言*)
今この国は、学校でも会社でも「競争」を激化させる方向で動いているけれども、こういうことで我々は幸せになれるのか?
もともと社会的な競争というのは、結果として一部のエリートを選び出すことを目指している。
国が今、わざわざ学校どうしを競争させてまでそれを激化させようとしているのも、そうやってエリート層を養成して、その他大勢の競争に参加しなかったり、頑張って競争しなかった人なんか、彼らがいいように使えばいいと思ってるからだろう。
企業は企業で合併に合併を繰り返して、業界何位とかの大資本を目指して競い合ってるが、そういう一部のエリート企業が残れば、それ以下の中小企業なんかどうなったっていいと思ってるわけだ。
こういうエリート主義というのは、そもそも民主主義に反していてダメなんだが、それもまた例の新自由主義(ネオリベラリズム)の一部だったりする。
結局、競争もエリート主義も格差も、同じひとつの現象なのだ。
しかし、だ。社会的競争なんて、誰もが相対的な順位を競ってるだけなんだから、どこまで行けば勝ちというものでもない。全員が常に追い抜かれないように追い抜く努力をするという、無限の頑張りを強いられるだけなのだ(ただでさえこの国ではもう十分に「頑張り」は強調されてきているというのに)。
それに、「他の人と比べてどうであるか」なんてことが価値基準になって、「自分がいいと思うか」が蔑ろにされてる世の中も、実に居心地が悪い。
ヒトという生き物が生きるペースは、今よりももっとゆっくりであるはずだ。だからこそ、競争に勝っていったところで、頭で「優越感」なんかにひたってるだけで、その身体は苦しいままなのだ。エリートになんかなったとしても、一個の生き物として、決して幸せになってるわけじゃない。
こういう「競争主義」や「エリート主義」にも、そんなものに煽られたくない人は、反対していかないとマズイ。
*) 『グローバリゼーション・新自由主義批判事典』イグナシオ・ラモネ他著、杉村昌昭他訳、作品社、より