ここ5年程、0円ショップという路上アクションを何人かの仲間でやっている。参加者が月一回、家の不要品を持ち寄って道の隅に並べ、道行く人にただであげているのだ。服、家庭雑貨、本、CDなどが、毎回シート4枚に広げるくらいが大体はけていて、街の名物になりつつある。詳細はツイッターアカウント@kunitachi0yenを見てほしい。放出品は、残った場合は持ち帰りだが、持ち寄り大歓迎だ。覗きにだけでもいいからぜひ来てみてほしい。
街頭では「なぜただでやっているのか」と聞かれることが多い。出しているものが家の不要品だと言うと大体納得してもらえるが、それだけでなく、面白い人がたくさん集まってくるなど他にメリットがたくさんあるので「損」などとは思わないのだ。
それでも、一銭にもならないことにこんなエネルギーを費やすのは「損」なのではないかと思う気持ちもわかる。それについて考えさせられることがあった。
0円ショップの初期からの常連だったKさんが、今年病気で若くして亡くなった。古着やレトロなグッズを見て回るのが好きだったKさんは、時には0円ショップ用に物を買うこともあると言っていた。自分はそれを聞いて、「それは違うんじゃないか」などと言ってしまったのだが、Kさんは「ひとつ高々50円や100円ですよ」と笑っていた。彼がその頃、自分の死を予感していたかどうかはわからない。けれども、亡くなった今にして思えば、あの世にお金を持っていけない以上、その使い方は正しかった。
今自分は、彼が出してくれたTシャツやジャケットを着て生活している。そのなかには彼が「鶴見さん、こんなのどうですか」と渡してくれたものもある。それはもしかしたら、彼がわざわざ買ってくれたものかもしれない。彼の贈与はこうして、彼の思い出として見事に残った。
「損」などではなかった。Kさんから貰った服がたくさんあるので、彼をいつでも思いだしている。
物には霊が宿っていて、それが贈り物を人から人へと動かす力になると考えた文化人類学者がいた。そんな、ある意味非科学的な考え方をする人がいてもおかしくないと思うほど、贈り物は不思議な力を持っている。
「見返りもなくあげること」については、いまだに自分のなかにも、肯定できるようなできないようなもやもやした部分がある。ただ、我々には必要以上に「損」だと思うくせがついているようだと、Kさんに教えてもらった。
0円ショップの映像:
不要品放出市「0円ショップ」について 鶴見済さん原田由希子さんインタビュー (8bit News)
ゼロ円ショップ (映像作家・中森氏による現場の様子。自分も色々話している)