著者である朝日新聞の名物記者の近藤氏が、米作りに挑戦し、資本主義批判と脱成長論を展開している本の書評を書いた。
主張にはとても納得がいくのだが、「エコ」や「スローライフ」、さらには「まじめな人たち」への違和感まで自粛せずに書いていて、それがさらに本の主張をより独自のものにしている。こんなテーマの本にそれを書く人間が他にいるだろうか?
苦しければ苦しいと書き、納得いかない説には納得しない。いいことしか書かないのが普通の世界では、これは新鮮だ。個人の考えをちゃんと言うのはいいものだな、などと思えてくる。本の主張そのものより、その姿勢のほうに心を動かされたりする。
2015年の秋、『東京新聞』に書いた書評。
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衣食住のすべてをお金で買っている我我にとって、働くことはそのお金を手に入れるためのやむをえぬ手段にすぎない。お金にならない仕事はどんなに意義があっても、「食べていくために」諦めざるを得ない。しかしその諦めが蔓延した社会では、生きていくことはできても、肝心の生きたいという動機自体が失われるのではないか。
それならば、最低限自分の「食べていく」ものだけは作り、あとはやりたい仕事をやるという生き方はできないか。本書はまさにこれを実践しようと、長崎の支局へ異動した名物記者が、本業の傍ら毎朝一時間だけ自らの米を作ってみたルポとアジテーションの書だ。
ここで秀逸なのは、違和感があればどんな正論にも真っ向から異議を唱えていく姿勢だ。著者は資本主義を痛烈に批判するが、いわゆるエコロジー的な考えにも安易に同調しない。農薬の危険性は承知しながらも、周囲に害虫の被害を及ぼさないために自らもそれを撒く。山からの水を独り占めする大先輩とも、上手く関係を取ることで解決する。周囲との調和を最重要視し、人と人とのつながりを解体した近代社会を批判する。その一方で、近代化の産物である個人の自由をこの上なく愛しているのもまた著者自身なのだ。
資本主義、エコロジー、近代主義、反近代主義、いずれの考えも完全に正しいわけではない。それらを丁度よく修正するには、どの立場にも迎合することなく、こうした丁寧な異論を積み重ねていくしかない。著者の馴れ合いを嫌う姿勢は、こうした点でも大きな成果をあげている。
この体験記を読んで、米作りが楽だと思う読者はいないだろう。また人一人が一年間に食べる米の値段は、それほど高くはない。買ったほうが早いと言いたくもなる。大きなものには抗うよりも諦めて従ったほうが楽なのだ。けれども著者が生き生きと抗っている姿こそが、そこに少なからぬ価値があることを訴えかけてくる。