資本主義には贈与経済で対抗すべきだとは思っている。
ただし、贈与経済を極端に崇めるのにも抵抗があり、古い社会、村社会、人間本来の性質などについても同様だ。そんなにいいところばかりであったはずはないし、かつての風習の悪いところも見なければ、今の時代に合ったより良いものを作り出すこともできない。
村の相互扶助や共同作業に協力しない者への制裁として「村八分」はあったし、それ自体悪いものではないが、贈り物への義務とされた「お返し」を、現代でどう位置付けるかも問題になる。
こうした煩わしさから逃れるために、近代人が個人の自由を求めたことには、十分な理由があるのだ。
今の社会が悪いのはAというもののせいで、それをBというものに変えたら(あるいは戻したら)すべては解決するのだった!などという誰も気づかなかった「解」などというものはないのだ。
『気流舎通信1 SOMA号』という伝説のzine(2013年10月)に、「贈与とお返しの経済」のタイトルで寄稿した。この媒体も、今は品切れ状態だが素晴らしい。一部書き足した。
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ヒトは贈物をやめない
お中元は、一説には明治三〇年代に、大売出しを催す百貨店の影響で定着した習慣で、それが戦後ますます盛んになったのだそうだ。あまり感心しない経緯だが、それでも日本に住む人々は、夏の盛りの時期には盆礼、暑中見舞いなどの贈物をしてきたのだから、やはり興味深い。
クリスマスやバレンタインデーのプレゼントはより感心しないが、それらでさえ我々のなかにある贈物とお返しの不思議な「本能」のようなものを見せてくれるという意味で注目に値する。
他にも有形無形様々な贈与が、この社会にはある。お年玉、お土産、お見舞い、お祝い、寄付、募金、ネット掲示板の「あげます」情報、互助会、ボランティア活動、海外援助、歳末助け合い……。
なぜ我々はこんなことをするのだろうか?
ただで物を他人に渡してしまうなど、今の資本主義(カネ儲け主義)経済の常識からすると完全な「損」だ。各個人はこの「損」を減らし、一円でも儲けを増やすために、かかったコストにできるだけたくさんの儲けを上乗せして対価を得ようとするはずではないか。
つまり一般に言われるほど資本主義は勝利などしていない。これほど多くの資本主義的でないやりとりが、どうしても社会に存在してしまうのだ。我々のなかに、カネ儲けに覆われて見えづらくなった、ヒトという生き物が持つ大きな何かがある。
貨幣経済が普及する前の社会では、人々は互いに物と物を交換していたというイメージがある。けれどもこの物々交換は本当に起きるのだろうか? ある魚を持った人が、それを麻布と交換したいとする。けれどもちょうど麻布を持っていて魚が欲しい人はいないかもしれないし、万一いたとしても出会えないかもしれない。
文化人類学者のモースによれば、実は個人どうしの物々交換など存在しなかったそうだ(註1)。確かに物々交換経済のイメージは今の商取引に似すぎていて不自然だ。交換を行っていたのは、必ず部族などの共同体どうしだった。そして交換は、価値がつり合うものどうしの取り引きではなく、まずは一方的な贈与という形で行われたのだ。共同体に贈られた物は、誰かに独占されることなく、内部で分配された。そしてその贈与には返礼が行われるのが常だった。
D.グレーバーの『負債論』には、物々交換の社会などというものがなかったことが、より詳しく立証されている。では何があったのかというと、著者によれば「貸し借り」であった。貸し借りは時間差のある物々交換ともいえるが、そこには即時決済の概念がない。
こうした贈与と返礼の連鎖が経済を成り立たせていたどころか、それは宗教や政治などあらゆるものを含んだ制度で、経済などその一部分でしかなかった。
つまり、贈られるのは物に限らなかたっだろうし、それは今の贈与・返礼についても言える。この前歌を歌ってもらったから、今度はこちらが踊りを踊ってあげよう、でもいいし、のこぎりを借りたから、味噌の作り方を教えてあげよう、でもいい。無形の贈与まで含めて考えると、贈与の範囲は限りなく広がり、贈与も共有も交換も区別がしづらくなる。「○○してもらったから、××してあげよう」という気持ちのやり取りがあるだけなのかもしれない。
資本主義より大きなもの
ただしかつてはこの返礼は義務でもあったとモースは言う。我々が贈物を貰うと、お礼をしなければいけないような落ち着かない気分になるのは、そのせいかもしれない。
実は贈与・返礼の習慣も、いいことばかりではない。贈与には返礼の義務がつきものであり、それをしないと戦いになることもあった。より多く贈与する側が偉いと見なされたり、返礼できるかどうかに面子がかかっていたというのも、どうかと思う。女性が贈与される物として機能していることもあった。そもそもしきたりと人間関係でがんじがらめになるのは辛い。これらを見るにつけ、近代以降の人間が「自由な個人」になって気楽になろうとしたのには、一理も二理も三理もあると思える。
けれども自分は古いしきたりを崇めたいわけではない。ただ、古くからあることを今に生かしたいのだ。
返礼の義務などなくていい(註2)。自然界は我々に見返りを期待せず、エネルギーや食べ物を与え続けている。果樹や花も、甘い実や蜜を一方的に動物に与えている。その原則を自然界の一部であるヒトが身につけていないはずがないではないか。
返礼はできる時に、できる形で、できる分だけすればいい。贈与してくれた当人ではなく、別の人に返してもいい。それが巡り巡って、当人に返っていくこともある。「恩返し」ではなく「恩送り」という言葉が、かつてこの国では普通に使われていたのだ。それを考えれば与えた方も、返礼がないからといって怒ったりはしないだろう。これならカネがない人でも、カネを儲けるのが苦手な人でも、何らかの形でこの「経済活動」に参加できる。
これが資本主義よりはるかに長く続いてきた、ヒトという生き物の経済なのだ。
この社会で一番まっとうと見なされるのは、バリバリ働いてカネを稼いでいる人である。そもそもカネを稼ぐことしか、生きるうえでやるべきことがないような気がしてくる。就職活動や会社勤めやカネを稼ぐのが得意でないなら、生きていくのは物質面でも精神面でも辛い。いや、会社勤めやカネ稼ぎをしていても、十分生きるのは辛いのだ。これはいい加減になんとかしなければならない大問題だ。
ただし、我々のなかに眠る贈与の本能をもう少し目覚めさせるだけで、これが変えられるかもしれない。
(註1)『贈与論』(マルセル・モース著、吉田禎吾他訳、ちくま学芸文庫)
(註2)ただし返礼があったほうが、贈与・返礼の連鎖は続きやすい。無料でなにかを与えてくれる活動をしている人には、返礼として手助けしたり、カンパしたり、その人の店で何か買ったりしたほうが、その活動も長く続くだろう。
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