『負債論』──物々交換はなく「貸し借り」があった

負債論.JPG負債論2.JPGお金と人類の歴史を、利益第一主義批判の立場からまとめるという壮大なテーマの本。
以下はこの本の内容と、ところどころ自分の考え。著者はアナキストのデヴィッド・グレーバーで、本の厚さは辞書並み。

負債があるというのは、それほど罪深いことなのだろうか。
かつての社会では「貸し借り」や「つけ払い」が当たり前で、誰でも誰かに「借り」(負債)がある状態が普通だった。それが歴史的に見ても、罪悪と見なされたり、あるいは人を奴隷のように支配するための道具となることがある。
お金での売り買いとは、その場で決済するシステムだが、お金が登場したあとも、貸し借りやつけ払いは普通に行われた。
しかし資本主義の社会になってからは、負債の罪悪化は決定的となった(例えば債務国の惨状を見ればわかる)。というのが、この本のメインの主張と言える。

真っ先に否定されるのは、お金がない頃、人々は物々交換をしていたとする有名な説。過去にも現在にも、物々交換の社会というものは存在しない。これは等価交換・即時決済という今の常識を過去にまで投影したかった、アダム・スミスの誤った説から来た。
では物々交換でないなら何なのかというと、「貸し借り」だった。後でその借りを返すことを前提として、人々は物を受け取っていた。
これは時間差のある物々交換とも言えるが、このほうがはるかに「ありそう」に思える。

贈り物をもらえば「お返しをすべき借りがある」と思えるし、物でなくても、助けたり手伝ったりしてもらえば同じように「借り」の気持ちが生まれる。
文化人類学の言うように、人間関係はすべて何かを「交換」するためにあるなら、そこには常に「借り」(負債)が生まれている。
こう考えれば、別のものと思われている贈与返礼・相互扶助も(資本主義以前の)交換も、ほとんど同じものと見なせてスッキリする。
ただし著者は、「人間関係はすべて交換」なんてことはないと強く主張しているのだが。

また著者の考えは、「人間らしいモラル」対「利益主義・計算主義」、「対等な人間関係」対「ヒエラルキー」、「名誉・信用」対「名誉のはく奪・奴隷」といったテーマを延々とめぐっていく。
どうである、というはっきりした結論に収束していくことなく、それはまさにめぐっているのだが、これらを最重要なテーマと考えていることは伝わってくる。

資本主義のはじまりを、ヨーロッパの大航海時代からと見ているところも興味深い。
またお金の始まりはというと、国家が軍人に渡す俸給を硬貨で払ったのが始まりと見ている。が、貸し借りの記録や証・印から貨幣が生まれたと言っているように受け取れる部分もある。

ただ、貸し借りは相手の信用という部分に大きく依存したやり取りであるため、信用があるのかないのかがことさら重要になる。確かに返しそうもない人には、あまり貸したくはならない。その人の信用や名誉が最も大事な社会というのは、あまり魅力的ではない。
それを考えれば、お金を使う社会にもメリットはある。

この本は意外にも読みやすいし、無数の実例が非常に面白い。
こんなとんでもないテーマに手を付けてもいいのだ、何でもやっていい、問題意識をちまちまと限定しなくていいと思わせてくれるところが、最もアナキストの著書らしいところかもしれない。

この記事へのコメント

  • つるたまさひで

    「貸し借りは相手の信用という部分に大きく依存したやり取りであるため、信用があるのかないのかがことさら重要」というのは確かにあると思うのですが、「返しそうもない人」で、返ってこないかもしれないけど、貸してもいいかなぁって人もいそうな気がします。
    2017年11月11日 07:48
  • 鶴見済

    >つるたまさひでさん

    半ばあげる感覚ですね。
    贈与にも返礼がないかもしれないし、
    昔は、貸し借りも贈与・返礼も接近していたような。
    そういうところはとても面白いです。

    2018年06月19日 00:16