「死にたい」に対する謎の上から目線

座間の事件をきっかけに、自殺に関する連続ツイートをしたので、その記録を残したい。

ここからあれこれ文章化しようとすると、面倒になって残すことすらやめてしまうので、そのまま転載する。


ひとつだけ。

「#自殺募集」というツイッターのタグがニュースなどで話題になった直後、ここに自殺をやめさせようとするツイートが多く寄せられた。自分がこのタグを見た時、何百もリツイートされて上位に来ていた話題のツイートはどれも、そんななかの薄っぺらい説教に対する怒りだった。


この怒り。自分にもあったどころか、自殺についてものを言う原動力のひとつだった。

死にたくなっている人は、他の誰よりも生きづらさの真っただ中にいるのに、こと自殺となると、なぜか上から目線でたしなめるような、あるいは叱るような態度を取る人が多い。自分が若かった頃は、もっともっと多かった。

そこに出てくるのが、「弱い」「命の大切さがわかっていない」「前向きになれない」「もっと大変な人もいるのに」といった、まったく心に響かない言葉の群れだ。

死にたい人より自分のほうが、よくものをわかっていると思うのも間違いだ。

そんなことはわかっていても、死にたい気持ちは強くなってしまう。死にたいというか、こんな人生にはこれ以上興味が湧かない、もう愛想が尽きたという気持ち。


うまく言葉にならない、あるいは100万語でも言いたいことがあるこの怒りを、他の人のツイートでありありと思い出した。

ちなみに自分も、自殺を回避できるならそれに越したことはないと思っていることは書き添えておこう。余計な誤解を生まないように。


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話題の「自殺募集」タグで上位に来るのは、意外にも薄っぺらい説教への怒りのツイート。死にたい人から見たら、その気持ちがわからない人は人生経験が浅いと見えているはず(ある意味そのとおり)。「親から貰った大切な命云々」といった薄っぺらい言葉・倫理観など、ギリギリの人に通じるはずがない。



「障害があっても前向きに生きている人」「流産で生まれることもできなかった赤ちゃん」もいるのに、などと、死にたい人の苦痛を相対的に軽いものと見なして自殺を止めにかかるツイートも、嫌な気分になる。個人が感じる生きづらさの軽重は、そんなふうに比べられるものではない。



死にたい人は一時的にまともな判断力をなくしているのだという、よくある解釈もあまり好きじゃない。正常な人なら誰もが生きたいと思うほど、この社会で生きることは素晴らしいことじゃない。あるいは、生きることはそんなに言うほど素晴らしくない。素晴らしい素晴らしい言いすぎ。



死んでほしくない人が自殺したいと言ってきたらどうするか? 自分なら、普通にきついと言ってる人とするような話をするだろう。楽になるあんなやり方や、こんな音楽もよかったよなどと。そのうえで、今やらなくても、様子見てればよくなるかもよ、くらいは言うかもしれない。(続く)



自殺だけやめさせようとしていると思われないように気をつける。自分が死にたいほうの立場だったら、誰のために言ってんだろうと思うから。



自殺したい気持ちを抱える人について、「自爆テロにもなりかねない」とか「方向が変わればオウム真理教になる」などと言う輩がいるが(「自殺マニュアル」についてそう言う阿呆もいた)、人一倍苦しんでいる人間に対して、とんでもない侮辱だ。自殺を犯罪のように見なして忌避する風潮はなくしたい。



死んでほしくない人が死にたいと言ってきたら、紹介してみたいもののひとつに「認知の歪みの10か条」がある。認知療法で使われるものだが、読むだけでも楽になる。実際にひどい状況である場合もあるが。かつて本にも書いた。



(死にたい人は認知が歪んでいると見なしているということではまったくない。念のために)


認知療法、認知行動療法は、保険診療で受けられる。自分も以前に認知療法と行動改善を合わせた認知行動療法を受けていた。効くとは限らないが、薬物療法に煮詰まっている時にいいかもしれない。



最終的には、律儀に悩み心配してばかりいるのがいいかげん馬鹿馬鹿しくなり、すべてどうでもよくなって、可笑しさがこみあげてきたりするのが、自分なりの理想的脱出法。こういう時、人は強い。



あまりにも悩み苦しんだ結果、すべてが馬鹿馬鹿しくどうでもよくなる開き直りの境地に至る最良のBGMはクレイジーキャッツ。そのうちなんとかなるだろう。



先日某紙の自殺に関する取材で、「死にたい人に何か言うとしたら?」と聞かれて「もっといい加減でいい、もっと不真面目でいいと思う」みたいなことを答えたのだが、真面目に思いつめる人より、ちゃらんぽらんな人のほうが生きやすいのだから、人生とは理不尽なものだ。ずっとそう思っている。



この世界はそれ自体としては人間の理性を超えている。--この世界について言えるのはこれだけだ。(カミュ『シーシュポスの神話』)

人間の理性では割り切れない不条理なことはいくらでも起きると。





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