自然が無料でくれる大きなもの

201504151609000.jpg『0円で生きる』では、自然界から無料で貰う方法もあれこれ書いている。

鶴見は最近すっかり変わって、自然がいいと言っている、などと言われることもあるが、そういうことは90年代から言っている。


本には、野菜栽培、野草採取、茶葉作りなど色々な技を書いているが、平凡な雑木林でも、眺め方しだいで十分楽しめる(その眺め方まで書いた)。

ひとつの林でも、季節はもちろん、雪・霧などの天気、夕方・曇りなどの光の加減、鳥・虫などの他の生き物の有無によってもまるで違ってくる。こうしたタイミングに、和歌や俳句を詠んできた人々は、最も神経を研ぎ澄ませてきたのだなと思うと、その無料で自然を楽しむ「技」に恐れ入るばかりだ。


こうしていると、自然物との関係というものに思いを馳せるようになる。

「野菜を作って食べる」という行為ひとつを取ってみても、このなかに光、水、空気、土といった、あらゆるものとの関係が含まれている。

「食べていく」とは本来これだけ単純なことで、面接を受けて就職をして月々何万円稼ぎ、そのお金をあれとこれの支払いにあてて、という途方もなく複雑なものではなかった。

また「関係」とは「人間関係」のことではなく、他の生き物や生きていない物(無機物)全般との関わりのことであって、それが見えなくなっているのだな、と気づく。


すべての人間関係に失敗してしまったとしても、それで一巻の終わりではない。けれども、そう思えてしまうような世界に、我々は生きるようになったのだ。


もう少し書こう。

我々はどれだけわめいても全員が死ぬわけだが、死んだらどこに行くのだろうか。

あの世などというものは存在しない。死んだ人たちは、この地球上の「そのあたり」に有機物や無機物として散らばったのだ。

それらの物質は、他の植物や動物に吸収され、それをさらに他の動物が食べている。もちろん我々人間もそれを食べる。この自分もそのように他の生き物を食べて育ち、死ねば「このあたり」に散らばる。

これを思った時に、自然界というものに(そして「このあたり」に)、愛着のようなものが湧いてきた。


人が自殺するうえでは、この世界に興味を失う(愛想が尽きる)という要因が大きいと思う。確かに、人間だけが生きる世界には愛想も尽きやすい。
けれども、世界とはこういうところなのだと思えば、まさかの「世界への興味」が湧いてくるのではないか?


こうした気づきや癒し全般が、自然界から貰えるものならば、自然界がくれるものは確かに安すぎると言える。何しろ0円なので。

これは新刊だけでなく、色々なところに書いてきたことだが、多くの人に読んでもらいたいことなので、また書いた。


※写真は近所の雑木林で、この色は素晴らしいと思い、撮った新緑なのだが、こうしたものは見たとおりに撮れることがない。そのうえこのブログ上ではピンボケするので、クリックしてみてほしい。Seesaaブログ、色々勘弁してほしいことが多い。

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