無料でつながる方法と、縛りのきつい関係を拒否する時代

複数の人があえて集まってやることは、ほとんど助け合いである。

そんなことを『0円に生きる』に書いたが、よく考えればそうなのだ。誰かが誰かを支援などしなくても、例えば孤独感に苛まれている人同士が集まって問題が解消したなら、それはお金も苦労もいらない有意義な助け合いだ。本で紹介した「自助グループ」は、そんな助け合いのひとつの形だ。


ネット上には、〈つなげーと〉、
〈ジモティー〉のメンバー募集版といった同好会のメンバー募集サイトがある。英語で外国人が多いが世界で一番有名なサイトに〈Meetup〉がある。こうやって集まることも、やはり助け合いなのだ。

欲を言えばもっと、日頃からつながりがなくて困っている人向けの集まりが増えてほしいところだが。



今の日本では、こうした
新しいつながりを作ることが極めて重要だ。それには深い理由がある。

以前から、昭和の時代には珍しかった、あるいは少なかった新しい生き方として、次のようなものがあるなと思っていた。

労働週4以下、フリーランス、ニート、不登校、ひきこもり、生涯独身、未婚同棲男女、子なし夫婦、シングルマザー、養子縁組親子、そして同性愛。まだ行きわたっているとは言えないが、アメリカなどでは広まっているポリアモリー(公認複数恋愛)も。


これらはすべて、戦後ほとんどの人が押し込められていた「学校」「会社(職場)」「家庭」という三つの領域から、あるいは「男女が結婚して子供を作り、男は終身雇用」という縛りのきつい人生から外れていることに気づく。晩婚化や離婚の増加も同じ傾向の一部だろう。


021z4.jpgこうした新しい生き方に向かった人は、まだまだ社会から「真っ当」と見なされるには至っていない。昭和の典型的な生き方よりははるかに低く見られる。それが、勤め先も子供もない自分の素朴な実感だ。


自分は平日昼に地元で自転車に乗っていると、よく職務質問を受ける。子どもを連れた母親やスーツを着た人は、そういう目にはまずあわないだろう。平日昼の住宅地には、ウロウロしているいい歳をした男などめったにいないのだ。少なくとも自分の地域はそうだ。警察官がいなくても、歩きづらくて仕方がない。


夫婦のみの世帯数は今や夫婦+子供の世帯数に迫る勢いで、独身世帯を含めれば、子供のいない世帯数は平成に入って、夫婦+子供世帯数を追い越し、今でははるかに上回っている

「一人暮らし世帯」は「夫婦と子供から成る世帯」を追い越越すか?(統計局)

それでも、まだまだ子供のいない世帯が、それほどに社会から認められているとは言いがたい。


こうした縛りのゆるい新しい生き方は、これからどんどん増えていくはずだ。なぜなら、学校・会社・家庭の三領域に長い間閉じ込められていたことが異常だったのだから。それは世界的に見ても特異な現象だったのだ。今では、よく全員がこんなものを我慢していたなと思えるほどだ。

現在の人間関係は、数百年という長いスパンで見ても、地縁、親子、男女関係など、どれをとっても縛りを緩くする方向に向かう途上にある。


縛りのきつい集団のなかでは、どんなことが起きるだろうか。

自分が大学を出て就職したメーカーの田舎工場では、工員が建物から出る必要がないように作られていた。自分の机と食堂以外に行ける場所はない。建物の外にも休憩所もなかった。そこでは、村八分が横行していた。村八分にされているのに、休み時間も一緒にいなければならないのは苦痛である。つまり、そんな閉ざされたきついつながりのなかでは、いじめや仲間外れが、最大限の効果を発揮するのだ。メンバーの入れ替わりが少ないこと、一緒にいる時間が延々と続くこと、これらは有効な村八分のためには欠かせない条件だ。

それなら、いじめをなくせばいいのだろうか? 集団での陰口や無視などは、そうそう簡単になくせるものではない。仲間外れのような行動を取るのは、社会性動物である人間の本質にかかわる部分なのだから。

効果的な策は、仮にいじめや仲間外れがあったとしても、それが致命傷にならないように、つながりを緩めておくことだ。

「きついつながりの苦痛に耐えながら生きるくらいなら、放棄してしまったほうがマシ」。そのとおりなのだ。そして多くの人がそれを実行しはじめた。
「そんなことをしたら、将来生きていけるかどうかわからない」? それはきついつながりのなかで、苦痛を我慢していても同じことだ。自分が会社生活から降りた一番の理由は、「このまま続けていれば死んでしまうだろう」と思ったからだ。


けれども長く、会社・学校・家庭の三領域がすべてだった社会には、それ以外の領域が育っていない。そのために、現状では降りてしまえば、何もなくなる。不登校を選んだ子供の多くが部屋でくすぶっているしかないのは、それ以外に行ける領域がまだまだ育っていないからだ。
だからこそ、つながりをなくした状態に不本意に落ち込まないように(本意ならばそのままでいいが)、新しいつながり方、あるは居場所の道筋をつけておくべきだ。
適応できない
者たちが、早く社会から「真っ当」と認められるためにも。

※グラフは統計局HPのものだが、ピンボケしてしまうのでクリックして見て
ください。

この記事へのコメント