『0円で生きる』では、寄付の貰い方、あげ方についても書いていて、寄付サイトなども紹介している。
けれどもサイトを見てもらえばわかるとおり、こうした寄付の世界は、「いわゆるいいこと」の独壇場となっているのが気になっていた。『愛は地球を救う』みたいな感じ、と言えばわかりやすいだろうか。日本の寄付や募金は、ほぼ「健全さ」や「道徳的なもの」に独占されているかのようだ。
けれども自分が知る限りでは、日々のお金に困っている人には、むしろそうした健全さや道徳的なものから縁遠い人、それに抵抗感を持っている人が多い。
ふさわしい言葉が見つからないのだが、斜に構えた者、不良っぽい者、やさぐれている者などと言えばいいのか。
ブレイディみかこさんの『花の命はノー・フューチャー』という本に、イギリスの最低所得者層の地域には、タトゥーが入っている人が圧倒的に多いという話が載っている(自分の書評)。自分が会った野宿している人たちにも、そんなタイプが多い。
もちろん、ここで言っているのは「内面的にやさぐれている者」全般のことだ。お金のあるなし、不良っぽさ、そんな外面的なことに関係なく、そのような人はたくさんいる。むしろ生きづらい系の人のほうに多いのかもしれない。
そして、こうした健全さに抵抗のある層は、社会の様々な恩恵からはじかれてしまっているのだ。
保守政党は経済的強者を守り、リベラル・左派政党は健全な層を守るかもしれない。けれどもそうした層を誰が相手にしているのか。そうしたタイプの人間が、選挙に立候補するのを見たこともない。
行政に何かを申請するなら、団体名は「いきいき友の会」のような健全な名前を付けるのが無難である。健全そうな身なりをしていれば、職務質問を受ける回数も減るだろう。
こういうことを書くのは、とても難しい。けれども、健全な人たちと健全さに抵抗を持つ人たちの食い違いは、かねてから重要なテーマだと思っていた。
健全なこと、道徳的なこと、「いわゆるいいこと」を批判するのは難しいし、批判する必要もないかもしれない。社会的に見れば、最も褒められやすい強い論理と言えるだろう。批判を恐れるテレビや新聞などの大きなメディアも、それなら安心して取り上げられる。
けれども、これまでに自分の胸を打ってきた音楽と言えば、どれもこれも健全でないものばかりだったし、そういう人は多いだろう。そういうものへの抵抗感には、十分な理由がある。
この世の理不尽さや不運を味わった者の多くには、特有の「世界(この世)への不信感・恨み」があると思う。人間は素晴らしい、世界は素晴らしい、清く正しく生きていればいいことがある、そういった言い草は、端的に言って間違っている。本当は人間も世界も運命も、健全ではないし、清廉潔白でもあったかくもない。理不尽で残酷な面がたくさんある。それに気づいたのだ。
この多くの人が持っている「世界に対する不信感・恨み」は、ほとんど語られないが、人間の心情や文化を理解するうえでとても大きなものだと思っている。
健全なことを言っている人のなかには、そうした人を、「ひねくれている」「こじらせてしまった」程度にしか見れない人もいるのだが、全く賛同しない。そちらのほうが、世界に対するより深い知見であると思えるからだ。
そしてその観点からは、大方の健全で道徳的なあれこれは、ほぼ抵抗感が湧くものになってしまうのだ。
いわれのないDVに苦しんだ者は、笑顔のファミリーの写真を見て、単純に「ああいいな」と思えなくて当然だ。
健全な人たちと、健全さに抵抗を持つ人たち。
嫌なら無理にそうすることもないのだが、両者がつながったほうが、利益が大きいことは想像に難くない。けれども、健全さに抵抗のある人たちが、健全な世界におもねったり、自らの考えを変えねばならないのはおかしい。そうすることなく、つながらねばならない。そのためには、いずれの側も懐を深く持ったり、共通する面を見ていったりする必要があるのだろう。
自分が0円ショップや畑をやっても、贈与や共有を提唱しても、「なんか健全なことやってるね、俺には無理だな」という反応を受けることは多い。確かにそうしたことは、日本では健全な世界の専売特許のようで、それをやるなら心や態度を入れ替えねばならないように思えてくる。が、欧米や東南アジアではそうではない。タトゥーだらけのパンクスや依存症の者が、そんなことをやっている。
健全さに抵抗のある人々の世界にも、今は健全な世界にある様々なメリットを開放したいものだ。
※念のために、自分はつながることに抵抗があるどころか、大歓迎だ、と言い添えておこう。
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