『0円で生きる』にもやり方を詳細に書いたDIYシュノーケルとは、自分の好きな場所から海に入り、好きなだけ海中を眺めるというもの。ボートでいい場所に連れて行ってもらって(主にサンゴがあるところ)、決まった時間だけ海中を見るシュノーケリング・ツアーと区別している。獲物を求めて狩りをしているような、独特の面白さがある。
けれどもサンゴ礁について言うなら、歩いて行ける海岸の沖に素晴らしい状態のサンゴがある場所は、そう簡単には見つからない。つい先日行ってきたインドネシアの片田舎ブナケン島は、まさにそんなところだった。
ブナケン島海岸でのシュノーケリングで見られるもの
「サンゴと熱帯魚を見る」という行為が、自分が生きるうえで何の役に立っているのか、まったくわからない。
けれども、自分が生きてやっていることのなかで、これを上回る歓びを感じられるものは、残念ながら他にない。熱帯魚を見ながらプカプカと海に浮ている時間はもちろんいいのだが、岸に戻って海を眺めながらイヤホンで好きな音楽を聴いていると、何かこみ上げてくるものがあり、この世界はそんなに悪くないと思えてくる。
こういう単純な歓びがなければ、人生は悩ましいことで埋め尽くされてしまい、この世界への興味も失せてしまいそうだ。大げさだが、生きる歓びと言ってもいい。
これに似た体験というと、レイヴパーティーで踊りながら朝日を見たことが思い浮かぶくらいだ。
いずれも、人間関係的な世界のなかでの悪戦苦闘とは、まるで関係ないことに驚く。こういうものが最大の歓びであるなら、あの悪戦苦闘は何なのか。そちらの世界は、注ぎ込んだ努力に見合う、生きたいと思う何かを返してくれるのだろうか。
こういう経験をすると、「他者評価」というものについて考えてしまう。
誰でも他人によく思われれば嬉しいものだ。けれどもそれは、よく思われなくなったり、悪く思われて苦しむことと表裏一体で、よく思われる方だけ選ぶことはできない。
こうした他者評価を、自分の幸不幸の絶対の基準としているときつい。自然を見ることでも、音楽を聴くことでも、本を読むことでも何でもいいので、他者評価のような不確かなものではない、自分なりの歓びを持っていると強い。これまでそう思ってきた。
他者評価がすべてなら、ちょっとしたことですべては失われてしまうかもしれない。それなのに、そこに労力を注ぎ込みすぎる社会になっているんじゃないか。
貼った動画は岸からリーフの端(ドロップオフ)までが、実際に見た時のように再現されている。
こういうものを時々見ては、見た時の気持ちを思い出すようにしている。そうしていると、これが生涯の財産であるような気がしてくる。
ブナケン島に行くには飛行機を少なくとも一度は載り継がなければならないので、行くまでの行程は正直言って面倒くさいし、金もある程度かかる。民宿は1泊1500円からある。島には他の呼び物はなく、ダイビングとシュノーケリングに来た客がそこそこいる程度だった。
これまで行ったなかでここまでの場所というと、フィリピン・セブ島のモアルボアルくらいだったが、伊豆でもかなりいける。
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