会話における嘘と対人場面での苦痛の話

ひきこもりになる人は、コミュニケーションを求めていないのではなくて、「純度100%」のコミュニケーションを求めているという説がある(斎藤環氏による)。その言葉が気になっていた。


自分は、10代から20代にかけて、うわべだけの言葉、相手や周りに合わているだけの言葉、心にもない言葉、社交辞令、愛想笑い、心にもない相槌、、、などなどがまったく苦手だった。

それらは一言で言えば「嘘」なのだ。大なり小なり、自分の心に嘘をついている。その嘘が嫌だった。

そうやってみんなが心を偽っているから世の中が悪くなってるんだ、とさえ思っていた。思っていたというか、今もある程度そう思っている。

苦しいのに楽しいふりなんかしていたら、いつまでも問題は解決しない。

人の胸を打つ歌や文学作品は、正直に自分の心を表現したものだ。

程度の差こそあれ、多くの人が思うことだろう。


ただしそこにこだわっていると、「会話」というものがとても難しくなる。自分の場合は挨拶で「よう、元気?」などと聞かれても、「元気じゃない」(時には「死にてえよ」)などと、答えていた。

その場を取り繕うための、心にもない話題というのも苦手なので、人に会ってもおざなりの会話というものが切り出せない。結局気まずい時間になってしまい、そのせいでまた落ち込む。

大勢で話している時でも、なあなあの相槌を打たないので、ぎくしゃくする。

そんなことばかりなので、会話や人づきあいはやりたくなくなってしまう。

自分の場合は、そこに対人場面における心の問題までが加わっていたため、人づきあいは避けたいものになっていた。


今はどうしているかというと、かつてに比べればはるかにたくさんの、うわべだけの言葉や社交辞令を使っている。もしかしたら、普通よりも少し社交的な人間と見えているかもしれない。少しずつそうなっていった。対人場面で苦労が少ないことのほうを優先したわけだ。

自分だけくそ真面目に筋を通して、その代わりにへとへとになるようなことは、これ以上やってられるかという気持ちもあった(どんな問題についても、真面目になりすぎて苦しくなったら、「バカバカしい、これ以上やってられるか」を出すことにしている)。

たいていの会話において大事なのは、その深い内容などではなく、「はずんだ会話をしている」という状態なので、天気の話でも何でもいいのだ。深い会話は、その後で考えればいい。そう思うようになった。


その分、ある大事なものは失った。けれども、対人場面でのきつさは激減し、人とつながる世界が開けた。対人場面における心の問題のほうも、その結果なのか原因なのかわからないが、少しずつ消えていき、気づいたらなくなっていた。


どちらがいいとも言い難い。これを書いたのはどちらかと言えば、かつての気持ちを忘れないためだ。同時に、対人場面を楽に乗り切るための、何かしらの参考になればとも思う。


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