「大人になれない若者」批判が流行っていた

DSC_0099.JPG80年代に「モラトリアム人間」という言葉が流行っていた。

モラトリアムというのは「猶予期間」のことで、大学生などで「大人になれない青年」を非難する意味合いで広まった。大人になれないというのは、まずはサラリーマンになるのを嫌がることだ。けれどもそれだけではない。

ハキハキ話す大人の態度が取れないことや、割り切れずに内面の自我にこだわる人まで、広く外向的・社交的になれない青年がモラトリアム人間とひと括りにされていたと言える。

もっと詳しく言えば、大人(=社会に適応した人間)になることこそが人間として“アイデンティティ”を確立することで、それができずにぐずぐずしていることが「モラトリアム」というネガティブな意味合いで語られていた。


精神科医が提唱して、精神医学界から広まった言葉で、他にも「ピーターパンシンドローム」「青い鳥症候群」「成熟拒否」など、似たような概念が精神医学界から色々提唱されていた。
自分も精神科医から、そうした非難を毎度のように浴びていた。「君は大人になれない」「未熟だ」と。


ただこれは言っておきたいが、そんなことを言われても、「はいなります」なんて思えない。
就職活動は嫌というほどやったが、「やってられるか」という気持ちでやった(そのせいか結果は悲惨だった)。
サラリーマンになってからもその気持ちはゆずらなかった(そこは大事なところだ)。


DSC_0100.JPG90年代の論壇的な世界で「大人になれ」という言説が広まったことがあったが、それもこの流れを汲むものだ。もちろん自分は、「反=大人になれ派」だった。


さて今の時代には、社会に適応しない人は随分増えた。当時の精神科医が今いたら、叱るべき相手が多すぎて身がもたないだろう。

もちろんほとんどの人にとって、社会に適応する必要などまったくない、なんてことはない。けれどもそのハードルが高すぎたのだ。「社会人になること」は、自分らしさも含め、あまりにも多くのものを捨て、諦めねばならなかった。

もともとそこに問題があるのに、各個人の資質も考えず、十把ひとからげにして、モラトリアムだ、大人になれないと批判していたのがおかしかった(「じゅっぱひとからげ」でなく「じっぱひとからげ」だったことを今知った)。


これは過去形で語るべきなんだろうか? 社会人になることの難しさはそんなに変わらないかもしれない。働く時間が短くなった、などいくつかの要素が多少はマシになった程度かもしれない。

働かない者など、社会に適応しない者がたくさんいて困ったと言うなら、その難しさという問題が背後にあることを疑ってみなければいけない。

しかしもっと軽く書かないと、なかなかブログを更新できなくて辛いな。

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