「自殺をする人は他人を殺しかねない」。
川崎の殺傷事件を「拡大自殺」などという自殺の一形態と見なす報道によって、こういうイメージがまき散らされた。
拡大自殺とは、自殺したい人が他の誰かや社会に恨みを持っている場合、まずその相手や見知らぬ人を殺してから自殺することを言うらしい。
その拡大自殺の提唱者である片田珠美氏が、その説の元にしているのが、「自殺とは他人を殺したい願望が自分に向かった形である」という「自殺と他殺は表裏一体」説なのだ。その説は彼女の著書『拡大自殺』のなかでも説かれている。
こういうおかしな仮説は「死にたい人」に対して、人殺しをしかねないという偏見を生んできた。
こういうことは、傾向としてあると言えるのだろうか?
実際に、数え切れないほどの自殺者の事例に当たり、まわりの死にたかった/死にたい人の話を聞き、何よりも自分が死にたいと思っていた時の経験から言うと、自殺したい人が他人を殺して恨みを晴らしてから死のうとするケースは滅多に見られないと言うほうが正しい。
自殺しようとする人も、「どうせ死ぬのだから何でもできる」などと思っているわけではない。もちろん例外はあるものの、死体の見栄えや迷惑をはじめ、自分の死後のイメージを強く意識するものだ。そもそも、自分の今の苦しみと死と格闘することで精いっぱいで、その前に復讐のために人を殺すという一大事を持ってくるエネルギーなどない場合が多い。
もし日本の自殺者のわずか1%にでも、こうした復讐の殺人を犯す傾向があるとしたら、毎年200~300件の「復讐の殺人→自殺」事件が起きることになる。
無理心中は本来は、ここに含めることはできない。心中というのはあくまでも一緒に死ぬということで、恨みからの殺人では決してない。残された家族などを思いやってすることだ。障害を持った子供と親が心中するケースが多いとも言われる。自殺は殺意が反転したものなどという仮説では、まるで説明できないものだ。
けれども、その無理心中を含めたとしても、こんな数字にはならない。
無差別殺人後の自殺ともなると、戦後は川崎殺傷事件の一件だけなのではないか?
「自殺は他人への殺意が自分に向いたものである」とは、もともと精神分析学のフロイトが提唱したものだ。実証的な根拠はない。それが戦後の日本でも受け継がれ、そのような言い方は、少なくなりながらも今も残っているというわけだ。似たような言い方に「自殺と他殺は表裏一体」という言い方もあり、片田氏も使っている。
『完全自殺マニュアル』に対しても、「これは世界を破壊したいという願望が反転した形」などというろくでもない評がいくつも出た。
自殺をするのは、苦しみが生きていくうえで耐えられないほどに高まったからであって、決して殺意が反転したからではない(そもそも反転って何なんだ。反転なんてするのか?)。日本の自殺の原因のトップは「健康問題」なのだ。他人への悪口や暴力のほうが、自殺よりもはるかに他殺に近いものなのではないか。
本来、川崎の殺傷事件のような稀なケースを、無理やり「自殺の一形態」と位置づける必要はない。けれどもこのフロイトの仮説を継承している学者にとっては、今では支持されなくなったその説を堂々と主張できる、絶好のチャンスなのだ。
川崎の殺傷事件のおかげで、自分が自殺をめぐる言説について不快に思ってきたことの原因が見えてきた。
自殺したい人は、苦しい目にあったけれども、自分が消えることで解決したいという、本来極めて控えめな、非難などされようもない存在であるはずだ。
「自殺は殺人願望が自分に向いただけのもの」などと言えば、殺人犯・凶悪犯と同類となってしまう。「ひきこもりを無差別殺人と結び付けるな」と言われたけれども、「自殺」にも同じことが言える。そんなケースは稀なのだから。
いや、まだまだ言い足りないのだが、それは追い追い書いていこう。
もっと楽にやらないと、全然書かなくなってしまう。
参考:川崎殺傷、識者はどう見る 「拡大自殺」「高い計画性」(日経新聞)
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