「私はその写しを自分の手にうけとって、目を走らせる暇もなく事実を了解した。それは敗戦という事実ではなかった。私にとって、ただ私にとって、怖ろしい日々がはじまるという事実だった。その名をきくだけで私を身ぶるいさせる、しかもそれが決して訪れないという風に私自身をだましつづけてきた、あの人間の「日常生活」が、もはや否応なしに私の上にも明日からはじまるという事実だった。」
これは、三島由紀夫の自伝的小説『仮面の告白』のなかの、主人公が敗戦の知らせを受け取った時のくだりだ。
超大型台風の19号が迫ってきた時のことを忘れないようにしたい。
「地球史上最大かもしれない」という情報まで出て、気象庁が「命を守るための行動をしてほしい」という異例の声明まで出した「関東直撃」の台風だった。
前日までに、ガラスを補強するための養生テープとパンがスーパーで売り切れてしまい、空の棚の写真がTwitterに出回って大々的に拡散された。同じくTwitterでは、自発的に備えや「命を守る行動」を呼びかけるツイートが大量にリツイートされた。「盛り上がっている」と感じた。
盛り上がっているという言葉だけで、こうした感情を「不謹慎だ」などと押さえつけてしまっては、大事なものを見逃してしまう。被災者支援の盛り上がりだって、これと地続きの感情によるものだと思う。
台風の真っ最中には自分もtwitterで、どの川が氾濫しそうなのかを「〇〇川 氾濫」のワードで検索しつづけていた。これもその盛り上がりなのだ(Twitterばっかりだが)。
「非日常的なものにみんなで飲み込まれる時に」、日常がきつい人は盛り上がる。いや、きつくない人だって、ある程度はそうなのではないか。台風だけでなく、オリンピック、クリスマス~正月、といったビッグイベント、ナチスのようなファシズム政権にみんなで己を投げ出すときにも、そんな興奮があったかもしれない。かつての村の社会における祭りもそうだろう。
三島由紀夫の記述を見ると、戦争ですらそうだったことがわかる。
ここにはふたつの要素がある。「非日常」と「みんなで」だ。
日常がきつい人が非日常を待望するのは、言うまでもないことだ。苦痛の根源である学校や会社が、休みになるというだけではない。互いを観察しあっていた目が、一斉に「それ」に向く。互いのことをあれこれ品評しあって面白がっていた(どこだってそうだろう?)皆の話題は、そのことで持ちきりになる。日常生活がむしろ戦場のように感じられ、毎日が白羽の上を歩くような気分だった者にとっては、それは休戦に等しい。
そこまで苦しくなくても、同じ繰り返しの毎日に嫌気がさしている人にとっては、やはり何かしら救いに感じられるはずだ。
それが今ひとつピンと来ない人が「不謹慎」と感じるのだろう。
「非日常」だけで十分長くなってしまったので、続きの「みんなで」のほうはあらためてまた書きたい。
それにしても、
「その名をきくだけで私を身ぶるいさせる、あの人間の「日常生活」」
という三島由紀夫の表現には感銘を受ける。「あの人間の」を入れたところなど、特に素晴らしい。
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