自分は親とは仲が悪くはないが、そんなに頻繁には会わないことにしている。あくまでも時々会うだけだ。
なぜか。
それは、近づきすぎると必ず、ああしろ、こうするなという特有の嫌な面が出てくるからだ。これまでにもそれで、何度も決裂して、そのまま絶交しそうになったこともあった。そうした経験をふまえての、互いの知恵なのだ。
(もちろん今後どうなるかはわからないが)。
(もちろん今後どうなるかはわからないが)。
これは人間関係を考えるうえで、とても重要なことだ。
人は、あまりに近づいていると、好感だけでなく「嫌だ」という感情も湧くものだ。人間は誰でも聖人君子ではないのだから。いつも口では聖人君子のようなことを言っている人間でも、近づいてよく見れば普通に醜い面を持っているのがわかる。
では、学校の人間関係はどうだろう。
細々とした班、係、掃除、給食、学級会、朝礼、体育祭、文化祭、合唱祭、そして部活動。考えてみれば教科以外にたくさんの活動があることに気づく。うちは勉強だけ教えますという大学にはまったくないものだ。「特別活動」という日本独特の教育法である。
あれらは道徳教育でもあり、「みんな仲良く」の教育とも言える。いじめへの対策として、特別活動をもっと活発にすることも提唱されている。
けれどもこういう対策には、人間の悪い面が見えていない。
こんなに朝から夕までベタベタさせていたら、誰でも「嫌い」の感情が出てくる。それがいじめにもつながる。いじめの温床を自分たちで作っておいて、いじめをゼロにしようとしているのだ。
もちろんうまくやれる相手となら、どこまでも親密になればいい。けれども、「嫌い」の気持ちが出てきた時、これでは距離を取ることができないではないか。
いじめは悪いに決まっているが、これでは子供もつらいだろう。
「近づけば近づくほどいい関係である」という、昔ながらの価値観がある。昔はよく「大喧嘩をして(殴りあって)はじめてわかりあえる」などという、暑苦しい友情観も唱えられていた。教育の世界では、いつまでこんな旧態依然とした考えがまかり通るのだろうと不思議に思う。
会うのをそこそこにしておいて、大喧嘩を避け、仲のいい状態を維持することは、当たり前に、いい関係のありかたではないか。
人間や世の中について、いい面しか見ていない一面的な見方は、とても通りがいいので世にあふれている。けれどもそれも偏った考えには違いないので、あちこちに害を及ぼしているわけだ。
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