映画『わたしに会うまでの1600キロ』と不安をあおる社会

poster2.jpg正月には何か一本、放浪ものの映画(ロードムービー)を観ることにしている。
今年観たのは『わたしに会うまでの1600キロ』だった。

【ここからネタバレ】
主人公が母の死から自暴自棄になり、性依存症や薬物依存に陥ってしまい、経験もないのに無謀にもパシフィック・クレスト・トレイル(PCT)の踏破、つまり数か月に及ぶ過酷な長距離の山歩きに乗り出す話。
道中の宿泊はほぼ、人気のない場所でのテント暮らしで、水や食料の不足、雪や野生生物に悩まされる。あまりにも過酷すぎて、死んでしまってもおかしくないなと思うほどだ。
【ネタバレここまで】

これはアメリカ女性作家の伝記の映画化で、正直に言えば、実話ゆえに話の出来はそれほどでもない。
それでも見ているだけで爽快な気持ちになるから、放浪もの映画は素晴らしい。
我々の日々の暮らしには、こうしたものが必要なのだ。

今の日本の社会は、不安をあおる情報ではちきれそうだ。
病気や事故の不安、老後、生活、災害、等々。もちろんもともとはどれも必要な情報であり、善意で流されていたはずだ。そのくらい警告するのが適当というものも、なかにはあるだろう。ただ全体的に見れば、適量を超えても止まらなくなっているのが今の状態と言える。

「公園での禁止を増やす自治体の心理」的なものの作用はある。あれもこれも危険だ、やめておけと言っておけば、社会全体が窮屈になったとしても、自分は責任追及を免れる。それは別の形の無責任でもあるのだ。

また、「不安情報は人の目を引くことを知っているマスコミの心理」的なものの作用もあるだろう。「〇〇しておかないと大変なことになりますよ」という情報には、それも大げさに言えば言うほど、人は注目する。
「社会は崩壊しているので、このままでは死にますよ」などという、よく考えればこれ以上はない警告までが日常的に飛び交っている。今の日本でこう言えるのであれば、東南アジアやアフリカなどでは、どう警告すればいいのだろうと思ってしまう。

その結果か、我々の頭のなかは不安と怖れでいっぱいで、不安モードが通常モードになっている。自分も昔からそうだ
不安材料を優先して何事にも手が出せなくなり、安全ではあっても爽快感はなく、鬱々としてくる。
できないと思っていたことができた時は、とても爽快なものなのだが、なかなかそれは味わえない。

かつてフィリピンのある島でバスを長い間待っていたら、満員のバスがやってきたことがあった。運転手は自分たちを屋根の上に乗せて出発した。あちらではそれが普通なのだ。乗っている間はおっかなびっくりだったが爽快で、目的地で無事降りた時には笑い出しそうだった。

この映画のような初心者のPCT挑戦も、まったく薦められないものだろう。ただ、主人公が悪戦苦闘しながら不可能を乗り越えていくのを観るだけでも、爽快感はそれなりに得られるだけでなく、観終えた後は、自分までがそこそこやれる気になっている。
やってみれば何とかなってしまうことはいくらでもあるのだ。

長い一年を始めるうえで、こういうものは有効だ。
そしてそれをこうしてブログに書き、自分のなかに定着させたい。

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