好意には好意が、攻撃には攻撃が返ってくる

人に好意を与えれば好意が返ってくるし、悪意や攻撃を与えると悪意や攻撃が返ってくる。
世の中は実際にそうなっているし、誰も特別に偉くなんかないのだから、当然のことだ。攻撃はしたいけど、反撃は受けたくない、などということは許されていない。

今では昔ほどには意識されなくなったが、これはとても大きな原理だと常々思っている。しかも単に優しいだけの気味の悪い話とは違って、厳しい面も備わっており、そこがとてもしっくりくるのだ。何しろ世の中は全然甘くないわけだから。
「自分がされたくないことは、人にしてもいけない」もこれと同じことなのだから、つくづく大事な原理だと思う。
「お互い様の法則」などと勝手に呼んでいる。


お金ではないやり取りの経済は、贈り物(贈与)とお返しの連鎖でできている。この経済を「贈与経済」と言って、その仕組みを「互酬」と言う。「世話」のような物ではない何かをやり取りしてもいい。
そしてこの「贈与・返礼」に悪意や攻撃(両者は必ずしも同じものではないが)のやり取りまで含めるのも、わりとよくある説なのだ。
好意の連鎖みたいな話を聞いただけではあまりピンと来なかったのだが、悪意や攻撃まで含めるとなると、世の中にこの原理がいかに広く行きわたっているかがばーっと見えたようで、感激したものだ。

「人権や平等という西洋の思想が入ってくる前は、それに代わるものとして何があったのか?」などとよく言われるが、自分はこの「お互い様の法則」(公平とか)なのではないかと睨んでいる。村の寄り合いで話し合うことは、こんなことばかりだっただろう。そのくらい大きな原則だったのではないか。
(もちろん、社会全体としては身分制度もあり、広い意味での公平などなかったわけだが。)


他人を攻撃すれば、反撃、再反撃、再々反撃の応酬が始まるだろう。好意を与えれば、好意の連鎖が始まる。どちらがいいかということだ。

ここで「好意の連鎖で世界を埋め尽くそうよ!」みたいな気味の悪いことは、あまり言いたくない。が、止まらずに、そう言ってしまう人もいるだろう(いや、あえてそう言うのも全然ありだと思うのだが)。
自分がそんなことを言わないのは、現実を見失いたくないから。自分だって批判などはしてしまうし(個人攻撃と言えるものはほとんどしないが)、攻撃してくる人間はいる。そして自分も反撃はする。自分が聖人君子ではないのに、口だけ聖人君子みたいなことは言えない。言ってる人間はいるが。

しかしそれでも、だ。人づきあいのなかで、他人を攻撃するのはやめておいたほうがいい。よほどのことがないかぎり。
身近な人に向けるのは、好意にしておいたほうがいい。
それは言っておきたい。

人は周囲から否定される時に一番きつくなるし、周囲から肯定されていると、もしかしたら一番幸せを感じるのかもしれない。最近そんなことをよく考える。
人にとって攻撃を受けるのは、そのくらい大きいことだと思っておいたほうがいい。
どんなに遠大な理想よりも、多分こっちの身近な問題のほうが大きい。よくわからんが。


※「お返しができない人もいるのだから、お返しは考えなくていい」という言い方もある。これは「ただし、できない場合はしなくていい、できる時でいい、気持ちを伝えるだけでいい」といった「但し書き」レベルのことで、それによって大きな原則のほうを否定するのはおかしい。ただ自分も、お返しが欲しいと思って贈与をやっていないので、気にしないでほしいが。それでもやはり、社会には「あげる→お返しする」の連鎖があったほうがいい。

※首相への攻撃なんかは実質的には、やっている政治への批判なので、他人への攻撃とは言えない。相手が政治家でなくても、企業がやることなど、社会との関わりの大きなことに対する批判なんかは、人を相手にしていても個人攻撃ではないだろう。ただ何気なく個人攻撃になっている場合もあり(安倍昭恵のゆるふわは気持ち悪いとか)、気をつけなければいけない。

※ここではそういうレベルのことを言っているのではなく、主に「人間関係」のことだと念を押しておく。ただ世の中全般について、好意か攻撃かと言ったら、好意がいいと思っているのは間違いない。「個人への攻撃は必要だろ?」みたいなことも、これまでの自分の経験も、あれこれ考えあわせたうえで、では最終的にどっちかというところを言っている。
注釈がやたら面倒になった。

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