「私は私、あなたはあなた」という胸に来る真理

私は私の人生を生き、あなたはあなたの人生を生きる。
私がこの世界にいるのは、あなたの期待に応えるためではなく、
あなたがこの世界にいるのは、私の期待に応えるためではない。
私は私、あなたはあなた。
私たちがたまたま出会い、互いを見つけるならそれは素晴らしいこと。
私たちが出会わなくても、それもまたいいことだ。


これは『ゲシュタルトの祈り』と呼ばれる詩で、ゲシュタルト療法という大きな心理療法を作ったパールズが、療法の基本となる考え方を盛り込んで作ったものだ(「祈り」ではなく「願い」と訳すべきだと思う。ちなみにこの療法についてはそれほど詳しくない)。

当たり前のことなのに、なぜこんなに胸に来るのだろうか。
パールズがこの詩をワークショップで読み上げていたことの重みを考えたい。
このことがわからなくなって心を病む人が多いということだ。

これは冷たい考え方だろうか?
昭和の頃までの日本であれば、そう思われただろう。
他の誰かのためにすべてを捧げてつくすような姿勢は、長らく尊いとされてきた。例えば家族とか、恋人とか。企業のために生きた会社員も同じだ。

本来、他人のためを思うのはいいことだ。しかしそれは、単に他の誰かに自らの生きがいを依存する口実になってしまうこともある。
自分が生きがいを依存した相手が理想と違ってきたら、「好きにすればいい」とは思えなくなる。依存された側ともども不幸になってしまう。
他人に生きがいを依存しなくて済むように、まず自分が生きがいを見つけ、幸せになることはとても大事なことだ。
そんな人間同士がつながれば、それはとても健全な関係になる。


そして誰だって、他の誰かに「よしよし、それでよし」と気に入ってもらうために生きているわけではない。
いつも自分が望まれていることを推測して、それに合わせるように生きることはない。

こう考えると、『ゲシュタルトの願い』は冷たいのではなく、他者と自分の尊重なのだとわかる。


原文のドイツ語の詩も載せておく。英訳もあるのだが、意訳してしまっている。こういうものは、直訳しなければいけない。上記の日本語訳も直訳した。

GESTALT GEBET
Ich lebe mein Leben und du lebst dein Leben.
Ich bin nicht auf dieser Welt, um deinen Erwartungen zu entsprechen -
und du bist nicht auf dieser Welt, um meinen Erwartungen zu entsprechen.
ICH BIN ich und DU BIST du -
und wenn wir uns zufallig treffen und finden, dann ist das scho
n,
wenn nicht, dann ist auch das gut so.

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