広い墓地だ。
墓地は実は公園のようにも利用されている。
自分も先日、ある市がやっている公園に行こうとして、感染対策で閉まっていたため(なぜガラガラの公園が?)、墓地に行ったのだった。
いつもそこをブラブラしながら、なぜこんなに落ち着くのか考える。
一番の理由は「死ぬことを思うから」なのだが、大きなテーマすぎて、それについてはまた別の機会に。
建物がないので空が開けていて、しかも動きや生命感がないので、異様に静かだという理由もある。そんな場所は他にはない。
そして大きいのは、どうしても過去の長い時間に思いを馳せるからだ。
古い建物や遺跡を見ている時の独特の静かな気持ちも、そのせいなのではないかと思う。むしろそれが目的で、人は名所旧跡を訪れるのかもしれない。
以前にエジプトのピラミッドに行って、ピラミッド、空、砂漠ばかりの風景を目にした。これらはどれも、4千年前から変わるものではない。4千年前の人もこの同じ風景のなかにいたのかと思うと、興奮するのではなく、気持ちがシーンと落ち着いたのを覚えている。
日々生きていると、どうしても近い過去や近い未来のことばかり考える。近い時間は動きが速いので、とてもせわしない気持ちになる。まるで凸レンズを覗くように、近くばかりが大きく、遠くは小さく見えてしまう。
けれども遠い過去も、やはり今と同じように、それぞれ濃密な時間が流れていた。これまで何世代もの人が生まれてはそうした時間を経て死に、それを繰り返してきたし、これからも繰り返す。
今はそうした時間のなかの、ほんの一部分でしかない。
遠くを眺められる場所も、やはり同じように落ち着く。
この場合は時間ではなく距離だ。遠くを見ることで、世界は身のまわりだけのような気がしていた頭を相対化できる。それが気持ちを落ち着かせるのだろう。
こんなに近い時間ばかりに、昔の人は目が行っていただろうか?
例えば、江戸時代の農民の人生を思ってみる。
今は父親世代、自分の世代、子供の世代と、生きている環境は激変している。けれども江戸時代の農村であれば、そんなには変わらない。
それは、長い時間を思うことのできる、遺跡をいつも眺めているような暮らしだっただろう。
そうした暮らしでなくなったのは、日本で言えば明治時代以降、つい最近のことだ。
気をつけていないと、凸レンズを覗くようなものの見方になる時代にいるのだと思う。
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