今回は曖昧な気持ちのまま書いてみよう。
万が一ウイルスが手に付いたら、万が一感染したら、万が一死んだら、万が一他人に移したら、、、と、コロナ自粛期間は「万が一」「もっと心配しろ」勢力の天下だった。
少しずれるが、「みんな自分を感染者だと思え!」という呼びかけにも抵抗を感じた。全体にとってはそれでいいのだろう。けれども個人にとっては、自分が感染者だったら外にも出られないのだから、大変な心理的負担だ。心配しすぎで苦しんでいる人(たくさんいたと思う)なんて眼中にない言い方だと思っていた。
こういう「万が一〇〇になったらどうするんだ!」という言葉は強く言える。怒鳴ることができる。どんなに低い可能性であっても。「万が一子供が死んだら」なんかは強く言える言葉の典型だ。
そんな苦情が入ったら、市役所も公園でも何でも使用禁止にしたくなるだろう。
それに対して何か言おうとすると、「まあ大丈夫なんじゃないの?」といったとても弱い言い方しか出てこない。
「心配しろ」の勢いは、なかなか止めるのが難しいのだ。
それほどまでに「もっと心配しろ」は特に大切で、「大丈夫なんじゃないの?」は大したことのない考え方なのか?
もちろん交通や医療や、その他安全を確保しなければならない仕事の担い手が手を抜くことなど肯定できない。そこに対する不信感があるなら、注意深くするのも当たり前だと思う。
真面目なんだから、そんなに悪くないじゃないかとも思う。
そんなこともあるので曖昧な気持ちなのだ。
けれども、「適当でいいよ」「気楽に行こう」は、そんなに軽んじていい価値観ではない。
大戦直後のような状況なら、「あれも気をつけろ、これも注意しろ」という態度はどうしても必要だっただろう。けれども今は、どこかちょうどいいところでそれが止まらず、行き過ぎているように思う。
ヨーロッパから来た知り合いが、工事現場の誘導員が道々「足元、注意してください」と言ってくれるのに笑っていたのを思い出す。
暖かい地域に多い(気がする)「のんきな価値観」、あれは今の日本にはないものだ。ことわざなんかを見ても、その手のものがほとんど見当たらない。フーテンの寅さんや植木等の無責任サラリーマンもの以降、映画のような文化にもないかもしれない。
「もっと心配しろ」勢力に駆逐されてしまったんじゃないか?
こうした社会の空気は、我々の性格や人生にも及んでいるだろう。
人生設計だ、安泰な道を行け、そんな生き方が当たり前の時代もあった。
「もっと心配しろ」が我々を苦しめるところまで行っていることにも、十分気を配るべきなのだ。
長くなった。これ以上書き込むのはやめておこう。
ひとつ付け加えておくと、自分の人生は「もっと気楽に」と自らに言い聞かせてきた人生だった。「心配」なんて当たり前のことなので、「もっと心配しろ」なんて冗談じゃない。
そういう人、たくさんいるんじゃないか。
明日は明日の風が吹く。
Take it easy.
この記事へのコメント
黒部真太郎
再生産数2-3であるゆえ母集団の2/3が(集団)免疫を獲得すれば収束するという仮説を耳にもしましたが、本当にウイルスの接触で能動的に免疫が獲得されるならば積極的にウイルスを避ける事は愚かだとは考えているのですけれどね。
山崎展生
たまたまネットで見つけました。
コロナ気にするのは必要だけど、気にしすぎると疲れちゃうよね。
でも、気に病むほど気にすることができるのは、やっぱり豊かな社会なんだなあと思います。
最近話題のブラジルより。