資本主義の「精神」が嫌だ

.jpg 「時は貨幣であるということを忘れてはいけない。一日の労働で10シリングもうけられる者が散歩のためだとか室内で懶惰にすごすために半日費やすとすれば、たとい娯楽のためには6ペンスしか支払わなかったとしても、それだけを勘定に入れるべきではなく、そのほかにもなお5シリングの貨幣を支出、というよりは放棄したのだということを考えなければならない。」

これが大社会学者マックス・ウェーバーが“資本主義の精神”と呼んだベンジャミン・フランクリンの人生訓だ。他にも、
「信用は貨幣であることを忘れてはいけない。」
「貨幣は生来繁殖力と結実力とをもつものであることを忘れてはいけない。」
「勤勉と質素とを別にすれば、すべての仕事で時間の正確と公平を守ることほど、青年が世の中で成功するために必要なものはない。」
等々、色々ある。それにしても、なんと嫌な精神であることか。
フランクリンはアメリカ独立宣言の起草者の一人で、「代表的アメリカ人」とまで呼ばれる人物だが、これを見ればある意味でそれもうなずける。

ウェーバーによれば、資本主義は近代以前にも世界のいたるところにあった。が、近代(つまり今の)資本主義は、こういう生活上の倫理観と結びついているところが特別なのだ。
近代資本主義は、フランクリン以降も今に至るまで拡大を続けてきたが、ならばこの「精神」だって同じように拡大していてもおかしくない。それどころかこのマネーゲームの時代には、より切実な人生訓になってるんじゃないか? 特にビジネスマンみたいな人にとっては。

今の行きすぎた資本主義は(特に環境破壊の面から)当然見直されるべきなんだが、自分が一番嫌なのはこの「精神」のほうかもしれない。
反資本主義と言うと、いきなり「社会主義」などとも呼ばれかねない時勢だが(それでも今は多少社会主義のほうに揺り戻されるのが妥当だと思うが)、散歩・懶惰(らんだ≒怠惰)主義だって十分反資本主義なのだと言いたい。
もちろん懶惰ばっかりでは生きていけないことも忘れてはいけない、わけだが。

参考:
M・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、岩波文庫