今回は、「なぜ人間はここまで余計とも思える不安を感じるようにできているのか」の話を。
心配事や悩み事で頭が一杯で、眠れないことが誰にでもあるだろう。なぜあんな厄介な機能が体に備わっているのだろう?
これは推測なのだが、考えてみれば、部族社会、狩猟採集時代のような身のまわりに生命の危険が迫るような環境で、不安があるのにぐっすり眠ってしまっては、その生き物は生き残れなかったかもしれない。
今は眠る環境だけはまったく安全になったのに、体がそれについていっていないのではないか。
また人間は、悪いことばかり思い悩む病気は多いのに、いいことばかり考えてしまう病気はあまり聞かないのはなぜなのだろうと気になっていた。どうせならその病気にかかりたいものだと。
これも考えてみれば、そういう性質の生きものがいたとしたら、命の危険にあふれている太古の時代には生き延びられないかもしれない。
狩猟採集時代の人間が、獲物を獲りに森に入ったとする。まず、自らを襲う外敵や、植物の毒や、地形や天気にも細心の注意を払い、それ以上の繊細な注意をもって獲物を探すことだろう。目に見える、耳に聞こえるありとあらゆるものが、心配や注意の対象だ。
そういう命を危険にさらすような不安材料を人間は今に至るまでに、ひとつひとつ取り除いてきた。もちろん細かく色々あるけれども、はっきり言って今はそこまで不安が必要な環境ではない。
例えば人の目のこと、ばい菌など生活環境のこと(コロナウイルスや放射性物質なんかは別として)、健康のこと、不審者等々、材料は色々あるが、人の症例を見たり自らの過去など振り返っても、そこまであれこれ執着して心配する必要はなかった。
ただ環境が激変しても、敏感に作られた体はそう簡単には変わらない。環境をそこまで急激に変えてしまっても、それらの不安センサーはやはり何かに反応するのだ。空回りであっても。
というわけで今でも我々は、日常の些細なことにまで心配しすぎたり、敏感になりすぎて困ったりしているのではないか。
というのは自分の仮説だが。
「いちいち気にするな。スルーしろ。もっと鈍感に」。
こういうものが今の時代の人間の「生き残り戦略」になっていると言える。太古の時代とまったく逆なのだ。
抗不安薬がここまで広く飲まれているのも注目すべきことだ。
せっかく備わっている不安能力、敏感能力を否定している生き物も珍しい。
いきなり動物園に入れられた野生動物が同じ悩みに直面するだろう、と言えばわかりやすいだろうか。
こう考えると、無駄な不安や敏感さが働いた時でも、「ああ、体の古い機能が空回りしてやがる」とやりすごしやすくなるのでいい。
(註)中井久夫という精神科医が書いた『分裂病と人類』という有名かつ壮大な本がある。
今我々に備わっている統合失調症的な気質は、狩猟採集時代にはとても合っていたと、そこには書かれている。幻覚妄想のような脳の機能が一体何のためにあるのだろうと、自分も時々思うのだが、大昔はそんな「きざし」に敏感な先読みの感覚も大事だったという。その本の主張もこの仮説に近い面がある。
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