「自殺する人はなんて弱いんだろう」という言葉

90年代からよくしていた話に、こんなのがある。
中学生の頃の給食の時間に、ある生徒の作文が給食時の校内放送で作者によって読み上げられたことがある。
その作文の確か冒頭はこんなだった。
「自殺する人はなんて弱いんだろう。親からもらった大切な命をどう思っているのだろう」。
それは、校内作文コンクールか何かの最優秀作品だったと思う。

それを聞いていた自分は、無性に腹が立った。「お前に何がわかるんだ」と。
その頃、自殺のことは頭にあった。すぐにでも死にたいというわけではなかったが、太宰治や芥川龍之介など、自殺した作家の死に際の小説を読んで、なんとか乗り切っていた。
そうした人のギリギリの作品には、他の人には書けない本物の苦悩や絶望が書かれている。

自殺については、しないですむならそれに越したことはないと思っている、といつも言っている。
けれどもこの作文には、そういうことでは済まされない大きな問題がある。

これをTwitterに書いたら、自分の学校にも全校生徒の前でそういう作文を読み上げた人がいた、というリプライがあった。
また、自分は昔のこととして書いたのだが、今でも変わらないという意見もあった。もちろんそれはあるだろう。


これは当時の教育者や精神科医が本気でそう思い、言っていたことだった。当時の教育界では、特に一大キャンペーン中だったのかもしれない。
優等生的な子供がそれを敏感に察知して、作文に書く。それをさらに教育者が褒めて賞を与え、さらに子供に聞かせることで一層の教育効果を上げようという企てだ。

ここから先、何か大きな結論を書こうとすると、さらに投稿が遅れるので、ここまでにしておこう。
ただ、この「”健全な”人たち」(ちょんちょんカッコ付き)の絶対の自信(特にこのテーマについては他の何よりも)、「自分の正しさ」を疑わないがゆえに他人を下に見ることができるその姿勢に、激しい抵抗感を覚える。

もうひとつ付け足すなら、世の中には他人に嫌がらせの言葉をぶつけるとか殴るとか、他害的な人は掃いて捨てるほどいるが、自ら消えていなくなるというのはまったく他害的でない、とても慎ましい行為だということ。
ビシビシ非難し慣れているので忘れているが、本来「何考えてるんだ、ふざけるな」などと言うことが難しい行為だ。


※ちなみに自殺というテーマに強い興味がある人はいて(死にたいということとは別に)、自分はそれではないなと思う。何か生と死の境目に関心がある趣味人のような人が多い印象を受ける。
自分の関心はやはり「生きづらさ」であって、その最初の切り口として「自殺の問題」があった。
自殺をテーマにした本(完全自殺マニュアル)がベストセラーになったのに、その後自殺に関する本を自分では一冊も書いていないのは、出版界的に見たら異常なことだ。自殺の専門家的に書いたり語ったりする仕事は、もちろんいくらでも舞い込んできたが、あまり受けなかった。
自分の言論活動的に大きな分かれ目だったが、そっちの方向を選ばなかった自分を褒めたい。

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