悪いことをしたわけでもないのに、それどころか被害を受けたのに、人には言えず隠してしまうことがある。
例えば、「いじめ被害にあった」なんかはそうだろう。
これほど「いじめはいけません」と言われているのに。
それどころか「お前いじめられていただろう」などと、脅しに使う人間までまだいそうだ。
泥棒にあったことを言えない人はいないのに、何が違うのだろう?
軽い精神病については、随分自分から公言できるようになってきた。
「うつ病」「発達障害(ADHDなど)」などは、本人が堂々と公言しているし、今は「過敏症(HSP)」が市民権を得ている真っ最中だ。
けれども例えば「社交不安障害(対人恐怖症)」は、今でも言いづらいだろう。何か違いがある。
つまり「気が弱い」なんてことは、まだまだ市民権を得ていないのだ。
人に対してガーッと強気で行けることが、いまだに偉いのだ。
市民権がないとは、やんわりと見下されているということ。そして、誰でも自分のイメージをよくしようと日々がんばっているのだから、そんなことを言いたくなるわけがない。
ちなみに、自分は96年に出した『人格改造マニュアル』のなかで、精神科に10年以上も通院していることを初めて明かした。『完全自殺マニュアル』を出してすぐにそれを言っていれば、もっと受け止められ方が違ったのだろうが、その当時はとうてい言える空気ではなかった。
80年代はネクラを笑う社会だったことは周知のとおりだが、90年代前半もそんなに変わったわけではない。「暗い」などと言って、公然と他人を笑っている有名人もまだいた。
96年の段階でも、清水の舞台から飛び降りるような勇気がいったことは確かだ。
軽い精神病のなかでも「うつ病」がいち早く市民権を得たと感じたのは、90年代の末あたりだったと思う。
自分の本が、精神科通院と向精神薬への敷居を下げたことは間違いない(ひきこもり研究で一番有名な精神科医もそう書いていた)。
これがうつ病の市民権にも役立っていたら嬉しいが、SSRIという新型抗うつ剤の登場などもあったので、複合的だと思う。
(こういうことを言うのは、おっさんの過去自慢のようで好きではないのだが、最近はライターも自分で宣伝をやらねばならず、自分の業績をまとめるのもそのなかに含まれる)。
悪いことをしたわけでもないのに人に言いづらいことは、まだまだ他にもあるだろう。
それはとても深い問題なのだ。
そこに、これから解決すべき社会の問題が眠っている。
LGBTがはっきり市民権を得たのも最近の話なので、世の中はそんなにうまくできているわけではない。
けれども今は、長年「弱い」「異常」とされて低く見られてきた者が盛り返しているところだ。
特に「心の弱さ」とされてきたことが、この先名誉を回復していくことは間違いないだろう。
今はひた隠しにしている属性でも近々市民権を得ると思えば、絶望も軽くなるというものだ。
人間の5千年の文明の歴史のうちで、気が弱い者が名誉を回復したのがここ20年なんてことでは、あまりの抑圧の長さに気が遠くなる。
けれども、「社会問題」というといつも上から降ってきて、困っている誰かのために義務感から叫ぶものと相場が決まっているが、こういう「自分の中に眠る未来の問題」というとらえ方は新鮮だ。
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