「気が弱い人」というまだ市民権を得られない人種

まだ市民権を得ていないマイノリティ、というか不当に低く見られている人種はたくさんいる。LGBTなんかは、最近ようやく市民権を得たマイノリティということになるだろう。

「気が弱い人」もそのひとつだ。
慎重であることは、決して劣っているとは言えない(不安を感じやすいかどうかが、気の弱さと大きく関わっているだろう)。
争いを好まないのは、むしろいいこととさえ言える。
それなのに「気が弱い人」は「小心者」「臆病者」と見下さてきた。悪いことなど何もしていないのに。
逆に「気が強い」っていうのはそんなに偉いのかというと、これも善し悪しなのだが、とにかく社会で幅を利かせることができるのは確かだ。
「気が強い」「気が弱い」という切り口で世の中やTwitter界なんかを見ると、ものすごく興味深いのでぜひお薦めする。

人間の歴史は「気が強い人」の勝利の歴史だったはずだ。
気の強さによって相手を威嚇したり圧倒したり、時には相手を殴り倒して従わせた者が上に立ってきた。今でもそうだ。
特に学校のような一般社会に比べて野蛮さの残る場所では、まだ「オラ、やんのかよ」みたいな態度が大きな力を持てる。
TwitterなどSNSのように個人が十分に守られておらず、むき出しで戦わねばならない新しい場所も同じだ。

こういう気の強さ、「武士の魂」みたいなものにその一番純粋な形を見ることができるのではないか。
すごく武士っぽいなと感じる。
「度胸」なんて言葉が浮かんでくる。
自分の子供の頃でも、気の強さが崇められるがゆえに、気の弱さは不当に蔑まれ、克服すべき気質と見なされていた。
戦時中なんかもすごかっただろう。


「オラ、やらねえのかよ」に乗って、気を強くして立ち向かうのはもちろんいい。それが一番自分の身を守る。だから自分だってそうするかもしれない。
けれども、皆がそうしているだけでは、「気の強さ」は崇められ続ける。皆が「単なる気の強さ」に拍手を送り、英雄視してしまうだろう。そういう世界は生きづらいよなと、ハッキリ思える。
そうやって万一相手を打ち負かせても、「気の弱さ」が広く肯定されるという目標からすると負けている。
「気が弱くて悪いのかよ」と開き直ることで事態を乗り切れたら、それが一番だ。
まあ、できるなら。

こういう開き直りをするのは、多分初めの頃はきつい。
けれどもそうする人が増えてきて、ひっくり返したら、それまでのきつさを埋め合わせてさらに釣りが来るくらいになる。
そして「気の弱さ」の市民権獲得は、結構いいところまで来ていたりする。

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