先日あるテレビ番組でも耳にしたのだが、
「『死にたい』は『生きたい』だ」
という言葉がよく使われる。「死にたいと言う人は、同時に生きたいと思っている」という意味だ。
これは「『嫌い』は『好き』だ」と同じで、意味をなさない文だ。なぜそんなものが通ってしまうのか。
これについては一度言っておこうと思っていた。
自分はこう考えている。
「死にたい」と言う人は大きな苦痛に直面している。
苦痛から逃れるにはまず、
①生きて苦痛を克服する
方向がある。
そして苦痛が大きすぎると、
②死んで苦痛から逃れる
方向も頭に浮かんでしまう。
つまり「苦痛から逃れたい」は、同時にこの二つの方向を持っている。そこから、「死にたい」と「生きたい」は同じだ、などと勘違いするのだろう。
「死にたい」「生きたい」なんてこと以前に「苦痛から逃れたい」がある。
これこそどんな人間でも日々、心の底から願っていることなのだ。
「死にたい」はその一形態なのだ。何かとんでもなく特殊なものと考えるべきではない。
「生きたい」っていうのも、実はよくわからない。
「病気で死んでしまう運命」といった状況でもないなら、わざわざ大変な気合を入れて自殺でもしなければ生きてしまうというのに、「生きたい」なんて強く思うだろうか? 自分は「生きたい」とは思ったことがないのではないか。
強く思っているのは、あくまでも「苦痛から逃れたい」であって。
「死にたい」周辺には、そこらへんの気持ちがよくわかっていない人が作った言説というものが結構流通していて、それが惰性で使われていたりするので注意が必要だ。
(註)ちなみに今回のTV番組は、安楽死についてのものだった。
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