なんかムカつく相手を攻撃するために、後から正義や理屈をくっつけるやり方

「なんかムカつくから攻撃したい」、だから攻撃する。
いじめはこういうものでもあり、これがだめなことは明らかだ。
そして「なんかムカつく」はいじめの原動力であるというのは、専門家の意見だ。

それでは、まず「なんかムカつく」相手がいて、攻撃するために、あとから理屈や正義をくっつけるケースはどうか。
よくあると思うが、それも同じくだめなはずである。
けれどもそっちは、見過ごされているのではないか。


子供のいじめでも、正義を口実にして行われている場合が多いというのも、専門家の意見だ。
確かに「〇〇君は悪いことをした」といった理由でいじめが行われるケースは多いと感じる。
人はまったく理由もない攻撃など、滅多にできないのかもしれない。自分の理不尽な攻撃を正当化するためにも、自分のなかでも後づけの理屈・正義が必要なのだろう。


正しさの立場から何か悪いものを攻撃するのは、本来悪いことではない。
こうした後づけの正義や理屈は、その形だけを悪用していることになる。


では、攻撃の理屈や正義が後づけである時の目印は何かあるだろうか?
後づけだけあって、「よく考えてみればそれほど悪くない」というケースが多いのではないか。
それに比べて、ムカつきはもともと大きいだけに、攻撃が不釣り合いに大きくなることも目印になるのではないか。

そして、悪のレッテル貼りが行われることも多いと思う。
例えば「ヒトラー」といった悪者・敵のイメージに、攻撃したい相手を寄せていく。
そうして、「攻撃している自分=正義、ムカつく相手=悪」の構図を捏造していくのだ。
それほど悪くない相手を猛攻撃に値すると印象づけたいのだから、そのくらいやってしまってもおかしくない。

ここまでやったら正義どころか、いじめやハラスメントと同じ、立派な悪事だ。


これまで、このことにあまりに無頓着だったのではないか。
不自然だなと思う攻撃があったら、まずこれを疑うべきだった。
悪事なのだから。


そしてこれもまた、特殊な悪人にだけ起きる特殊な心性だなんて思ってはいけないだろう。
心のなかだけなら、誰にでも起きているかもしれない。
実は自分も狙われたのだが、加害者にだってなり得る。
攻撃できるところが一点もない人なんて、まずいないのだから、やろうと思えば大体どんな相手にもできる。
それは言い添えたい。

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