これもずっと前から気になっていたこと。
「人が幸せになれる世の中にするにはどうすればいいか?」と、たくさんの人が考えるだろう。
その時の発想のしかたに疑問がある。
今なら普通は、「じゃあ医療どうするんだ」「教育どうする?」「税制どうする?」(以下無限に続く)というふうに発想するだろう。
もちろんそれは大事なのだが、「幸せになれる世の中にする」というワクワクするテーマの割には、ずいぶん義務的・勉強的でやる気の湧かない話だ。
もっと普通の発想のしかたってないのだろうか?
まず自分の人生を振り返ってみて、何が一番不幸だったか考える。その不幸を感じた人が他にもたくさんいそうなら、それをなくすことで世の中を幸せにする。
むしろ、そっちのほうが順番として普通じゃないだろうか。
前者は「社会全体からはじめる考え方」、後者は「自分からはじめる考え方」と言える。
19世紀後半から20世紀前半くらいの世界では、まず社会全体をどう作るか、いちから考える必要があった。
王様が支配していた国を壊して、新しい国を作らなければいけなかった。第三世界では、20世紀後半がその時だった。
まさに「医療どうする、教育どうする」だ。
「社会全体からはじめる考え方」は、そういうところから続いている発想のしかたに引きずられているように思う。
もちろんそればかりではなく、政治家的な発想のしかたが下りてきているとも言えるが。
けれども今ならもう、「自分からはじめる考え方」をしてもいい。
いや、いつだってそうしてよかった。
(発想のしかたを以前からのものに縛られている弊害は、他にもいくらでも感じてしまう。「マルクス主義的な発想の枠組み」に縛られる問題は特に大きいと思うが、これはまたの機会に)。
誰だって親に殴られたり、友達にいじめられたりして育ったら、地獄の体験だと思ったに違いない。
けれどもそれらを重大な問題だと人間が認識したのは、20世紀の後半になってやっとだ。
遅すぎるのだ。
これまで経験した当事者たちは、それについて心のなかでどうやり繰りしたのだろう。
それほどの問題でなくても、「見かけがよくないから尊重されない」とか「毎日同じことの繰り返しで耐えられない」とか「嫌がらせされている」とか、人が「これが一番つらい(つらかった)」と思うことというのは、本当に色々ある。
そのことが忘れられないのに、あるいは毎日それで頭が一杯なのに、「幸せな社会を考えましょう」と言われると、それとはまったく別の「医療どうする、教育どうする」を考えねばならない。
本当に叫び出したくなるような心の叫びがあるのに、まったく別の薄い問題を叫ばなければいけなかったりする(これは他人事ではない)。
社会全体はもちろん大事だが、自分にとって大きい問題は引っ込めなくていい。
書いていて、あまりにも当たり前だと思う。
引っ込めてきたことが、大きな遅れを招いたのだ。
この記事へのコメント