みんなや他の人にこうしろと訴えている人と、自分がこうしたいと訴えている人がいるのに、ちゃんと区別されてないという話を。
夫婦別姓について反対の人と賛成の人が、同じように扱われているのに不満がある。
そこそこ指摘されることだが、夫婦別姓に反対の人は、全員に別姓を選ばせないぞと主張している。そして別姓を選ぶ人がいても、おそらくその人には何の害もない。
一方賛成の人は、全員別姓にしろとは言っていない。個人の選択について言っている(ここには個人の選択を尊重するかしないかという、第二のテーマが隠されている)。
後者は前者に比べて、はるかにひかえめな訴えをしているのだ。
そこのところは、はっきりと意識されるべきだろう。
こういう不公平というか不利な扱い、人生のなかでずいぶんたくさん接してきてしまった。
90年代の若手論壇?に、「大人になれ派/子どものままで何が悪い派」という分類みたいなものがあった。
これは一時期、どこかで勝手に名づけられたものなので、大体のイメージみたいなものでしかない。
自分はこの両陣営のなかで、もちろん「子どものままで~派」に括られていた。
「大人になれ派」の代表は、小林よしのり氏だった。
これはこれで、今あらためて検討してみるのも面白いのだが、ここにも不公平がある。
こちらは個人の勝手な選択を訴えているのに対して、「大人になれ」とは随分命令的だ。
この自分にすら、生き方を指図してきていることになる。
大麻論争にもこうした側面がある。
反対と言う場合は、大麻を全員吸うなということ。
賛成と言っても、もちろん全員吸えとは言ってない。
尊厳死もだ。
尊厳死に反対とは、自分がそれを選ばないという意味ではない。
全員に選ばせないと言っているのだ。
世の中には、みんなに、あるいは他人に「こうしろ」と訴えるタイプの人と、個人の自由な選択のことばかり訴えている人がいる。
これはよく見ないと、意外と気づかない。
もちろん自分は後者だ。
そして、あまり全体や他の人にこうしろと言わないタイプの人は、自分が言われたくないのだから、人にもあまり言いたくないなと気を遣っていることが多い。のだと思う。
けれどもこっちは人には言わないようにしているのに、人からは「こうしろ」と言われる。
社会的な主張ばかりではなく、日常的な些細なことについてもそうなのだ。
こういう不公平を常々感じている。
そういう不満を持っている人間もいるんだぞと言っておくべきだなと思った。
そんな不満があるなんて、思ってもみない人もたくさんいるだろうから。
(註)相手への思いやり、気づかいなんかは悪いものではないので、微妙な問題であることも付け足しておこう。
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