社会の激動より個人の激動のほうが大きい

「バブル崩壊前は、誰もが明るい未来を信じることができる時代だった」
こんな言い方をよく耳にするようになった。
明るい未来? 自分と自分のまわりを思い出すにつけ疑問に思うのだが、それ、信じられていただろうか?
80年代の頃の一般的な未来像は、ブレードランナーやAKIRAや北斗の拳のような、全面核戦争(やそれクラスの大惨事)後の廃墟と化した世界ばかりだったので、明るい未来のはずはない。
米ソ全面核戦争の危機におびえていたのだから。
でも、そんなことも関係あったかなと思ってしまう。


では、「バブル崩壊によって未来は絶望的になった」はどうだろう? 
これについても、少なくとも世相は、そういう感じではなかった。
むしろその頃、米ソの冷戦が終わって全面核戦争の恐怖がなくなり、西側陣営だった日本はある程度戦勝気分だった。
これこそ世界の大ニュースであり、むしろ未来は明るく見えた時期と言えるかもしれない。
けれどもそれですら、個人の未来観を変えるほどのものだったか怪しい。
これについてはまた別に改めて書くことにしよう。


ここで言いたいのは、未来が明るいかどうかは、その人個人のやっていることがうまくいっているかどうかの影響がはるかに大きくて、社会の状況はそれほど影響していないのではないかということだ。
個人のこととは例えば、人との出会い、別れ、交際、同居、加害・被害、病気、怪我、進学、学習、就職、退職、転職、起業、引っ越し、結婚、出産、留学、家庭環境、不仲、技術を学ぶ、新分野開拓配属、転職、趣味等々、そういったことだ


自分のこれまでの感覚から言うと、自分個人に起きる出来事は、社会の出来事に比べて「いい」も「悪い」もはるかに大きい。
個人の世界では、頻繁にものすごい不安や危機がやってきて、一巻の終わりかと思ったり、難を逃れて安堵したり、そんな起伏がとんでもなく激しい。その激動ぶりに比べたら、国や世界の「最悪の事態」なんて言われるものは、まあ、それほど大したことないと感じる
もちろん、戦争に巻き込まれるくらいのことになったら話は別だが。


自分は90年代からこんなふうに言ってきた。
大原扁理君、佐々木典士さんとやったトークイベントで、大原君が「社会的な非常事態より、自分の日常のほうが非常事態だった」(大意)というようなことを言っていて共感した。


社会全体で「非常事態だ」と騒がれている真っ最中に、個人的に多少よくない程度のことが起きて、その大変さがあっさり社会の大変さを超えてしまうことなんてザラにある。
社会の大事件とか大問題とされることをSNSで叫んでいるまさにその時、本当はもっと大きな個人的問題のどん底にいたりする。
けれどもメディアを見れば、大したことないと思えるその「最悪の大惨事」で毎日大騒ぎしていたりする。
このコロナ禍もそうだ。これが戦後では世界最悪の事態なのかもしれないが、個人的な悪い事態にちょくちょく超えられている。

そういう時の気持ちに、どう整理をつけたらいいのか、みんなはどうつけているのだろうかと、よく当惑する。

(「自分の感覚がおかしいのだ、社会の問題のほうが大きいんだ、みんなそう言ってるじゃないか」などと割り切ることは絶対にしない)。


※ブログ書くの久々になってしまった。忙しさ。

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